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『虎に翼』と〈家族〉の問題

さて、都知事選やバチェロレッテのような時事ネタについてばかり書いていても仕方がないので、今日は少し変わったことを書こうと思う。それは朝ドラ『虎に翼』の話だ。僕はこの作品を、今のところ毎朝楽しみに観ている。控えめに言って、傑作だと思っている。特に戦争中の裕三と寅子の絡みや、戦後によねと轟がバディを組むことを決意するシーンは、国内のドラマ史に残るものではないかと思う。それくらい作品としては「評価」しているのだが、今朝放送された猪爪家の「家族会議」のシーンは本当に「無理」だった。作品として「いい」とか「悪い」とかそういう次元の話ではなく、マジで僕は猪爪家「無理」だと思った。無理やり評価の話にするなら、そう思わせるくらいの力があるのがこの作品なのだとポジティブに評価していいだろう。しかし、今日僕が書きたいのは、ちょっとこのノリの家庭に自分が子どもの立場でいたらとてもじゃないが生きていけないな……という話だ。

観ていない人のために説明すると今朝の放送回では一家の大黒柱として「勤めに出て」稼ぐヒロインの寅子の家庭内での傲慢な振る舞いと、エリート意識から来る「普通の能力の人たち(具体的には兄嫁や娘や甥たち)」への無自覚にマウンティング的な言動に家族の怒りが爆発し、そしてそれに寅子が「反省」するという展開が描かれた。それはまあ、必然性のある展開でこれまでこの作品がこれまで築き上げてき人間観、社会観からすると、むしろ「ないとまずい」くらいのものだったのだろうけれど僕はその「描き方」に、一言で言うとかつてないほどの、どうしようもない息苦しさを感じたのだ。

いや、やっていることは正しいと思う。「家族」だからと遠慮しないで、本音をしっかり、フェアにぶつけあい、強い立場にいる人のほうがより多く気を使い、歩み寄る。そこにまったく不満はなく、よく描いてくれたとすら思う。じゃあ、どこに僕が息苦しさを感じたかというとそれは一連の描写の背景にある「家族」の神聖視だ。もちろん、あるレベルではこの作品は家族を正しく相対化している。今朝の展開だって、家族を「社会」の一部として扱い、家族内の問題も社会のルールでフェアに裁こうとしている。しかし、僕は思う。たしかに「社会」は大事だ。たとえ思想が違っていても、言葉が通じなくても、メンバーと一緒に社会を維持していかないと道路も学校も病院も防波堤も維持できない。しかし「家族」はどうだろうか。「社会」は嫌でも一緒にやっていかないといけないと思うけれど、「家族」は違うのではないか。それが僕の感じた疑問なのだ。要するにこの作品は、少なくとも今朝放送されたこの回については、「家族」を「社会」と同じように「必須のもの」として描いている。それが僕の感じた違和感の正体だと思う。

詳しく解説しよう。

今朝の『虎と翼』では、「家族会議」の結果として寅子は娘のユミと一緒に新潟に赴任することになる。

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僕はもはやFacebookやTwitterは意見を表明する場所としては相応しくないと考えています。日々考えていることを、半分だけ閉じたこうした場所で発信していけたらと思っています。

宇野常寛がこっそりはじめたひとりマガジン。社会時評と文化批評、あと個人的に日々のことを綴ったエッセイを書いていきます。いま書いている本の草…

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