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建設的な「批判」に必要な条件とは何か

去年、いちばん呆れたことにあるシンポジウムのことがある。それはなんというか、近代システムと資本主義のオルタナティブを探すとか、持続可能性に配慮した新しい社会とか、そういった「意識の高い」テーマを掲げたもので……というか今「意識が高く」聞こえそうなテーマを全部並べたような感じで、そのせいでいまいち中心的なテーマがわからなくなっていたイベントだった。こう書いてしまうとダメダメなイベントだったかのように思われるかもしれないけれど、実は逆で、少なくとも僕の登壇したセッションは他の登壇者のみなさんの尽力のおかげで、とてもいい議論ができたと思う。

ただ、僕が気になったのは僕たちが登壇するものとは別のセッションで、はっきり言ってしまえばものすごく幼稚な「近代批判」がドヤ顔で展開されていたことだ。曰く、今日の資本主義社会は西洋近代的な「個人」という概念に毒されている。私たちはこの概念を捨てて、共同体の一部となって幸福を追求しよう……といった趣旨のことが(マジで)主張されていた。

いや、僕だってそれなりに真剣にものを考えているというか、教科書的なことは知らなくもないので、近代という巨大なシステムがもたらす人間疎外とか、行き過ぎた個人化のはらむリスクとか、そういったことは百も承知なのだけど、観客に人文社会科学のプロパーが少ないビジネス系のイベントだからといってさすがにこれはあまりにも幼稚過ぎるというか、悪質だとすら思った。この人は資本主義批判、近代批判といった「デカい話」をするために、まったく歴史的な蓄積や、論理的な整合性を無視していた。というか、明らかにこの登壇者は観客のリテラシーが低いことを前提に、「デカい話をしてウットリする」モードに入っていた。

中学校の社会科で習うと思うのだが、「個人を捨て、共同体の一部になることで幸福を得る」というのは、要するに全体主義に帰結する論理で、80年ほど前にそのせいで人類は危うく滅びかけたばかりだ。まあ、こんな例を出すまでもなく、このウットリさんが寡婦を焼き殺す風習のあるムラにその寡婦として明日転生したとき、本当に自分の人生に納得できるか5秒くらい考えてみたらいいと思う。まあ、ポジショントーク的に「私は西洋近代的な〈個〉は認めないので、共同体の一員として幸福感に包まれて焼け死にます」とか言うかもしれないが、それを「近代的な」システムに(具体的には大学や大企業に)身分保障された東京の文化人が(実際に転生しないことを確信しているために)堂々と口にすることの愚かさと傲慢さに無自覚なところにこの種の言説の問題はある。

そして僕が「悪質だな」と思ったのは、このイベントが平日の昼間に行われていたことだ。つまり、「普通に働いている人」はここには来れない。要するにこれはこうした「意識高い」イベントに「仕事」として来ることができる上級国民や、経営者、上級フリーランスなど「のみ」を対象にしたイベントなのだ。かなり恵まれた人たちだけが集まった場で、歴史的な視座もなければ論理的な整合性もない表面的な美辞麗句が並び、それをサプリメントのように消費して気持ちよくなった観客が翌日に「こんなに意識が高いイベントに出ました」とFacebookでドヤ顔する……。これ、さすがにちょっと違うんじゃないかと思ったわけだ。

そのうえで、僕がこの日の憤りから持ち帰りたいことは、「批判」の建設性の条件について改めて考えたことだ。

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僕はもはやFacebookやTwitterは意見を表明する場所としては相応しくないと考えています。日々考えていることを、半分だけ閉じたこうした場所で発信していけたらと思っています。

宇野常寛がこっそりはじめたひとりマガジン。社会時評と文化批評、あと個人的に日々のことを綴ったエッセイを書いていきます。いま書いている本の草…

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