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「スマートシティVSコミュニティ回帰」という対立は擬似問題だと考える僕は「都市の静脈」に注目している、という話

先週は「庭プロジェクト」の研究会だった。今回の発表者は田中浩也さん。田中さんはデジタル・ファブリケーションの専門家なのだけど、少し前から鎌倉市でその知見を活かしたまちづくりのプロジェクトに関わっている。いわゆる「スマートシティ」が(主にアメリカで)技術の活用を「手段」ではなく「目的」にしてしまったためにかなり悲惨な事例が山積したのは有名な話だが、田中さんはこうした事情を横目にあくまで人間主体の都市の「スマート化(というと、だいぶ読者がイメージするものとは違うものなのだが……)を実践しているのだ。

スマートシティの2010年代の(あまりポジティブではない)展開についてはベン・グリーンの『スマート・イナフ・シティ』に詳しい。また田中さんが「モノ」から都市を変える可能性についてどう評価しているかは『モノノメ』創刊号の酒井康史さんとの対談を参照してもらえたらいいと思う。

そこで、今日はその田中さんの発表とその後のディスカッションを通じて考えたことについて書こうと思う。例によって、結論から先に書いてしまうと僕が考えたことは二つだ。一つは都市の「静脈」つまりごみ捨てや下水などを単にコストとして捉えるのではなく、市民の社会参加の回路として活用するという発想はなかなか使えるのではないかということ、そしてもう一つはそれと連動した地域通貨のようなものは、反面にそれほどポテンシャルはないのではないかということだ。

以下、その理由を書いていこう。

そもそも「スマートシティVSコミュニティ回帰」という構図は擬似問題だと僕は思っている。前者の何割かは単に自分たちのサービスを自治体やオールドエコノミー大企業に売って大儲けしたいIT企業やコンサルや広告代理店の限りなく詐欺に近いプロジェクトだったことは前の10年でかなり証明されてしまったところがあると思うし、この「惨状」をドヤ顔で批判する左派(大学人や大手マスメディアで発言する言論人に多い)の思考のかなりの部分が自分が理解できない分野の知(情報技術)が社会を大きく変えてしまっていることへの嫉妬で占められていることも自明だ。

実際に彼らがスマートシティの対案として提示する「協働型コモンズ」の実態の多くはただの村落共同体(ムラ社会)回帰だ。そりゃあ経済的、コミュケーション力的な強者や、権威(大学や大手マスメディア)に守られた人々(貴族様)にとってすべてが人間関係(とくに権威)で決まる世界はさぞかしユートピアだろう(そうではない人にとっては「地獄」だが)。

目がドルマークになったIT屋の推進する「スマートシティ化」と、令和のマリーアントワネットたちがウットリ語る安易で偽善的なコミュニティ礼賛のどちらも正しく軽蔑した上で、どう自分たちの「場所」をアップデートしていくのか。それが近年の僕のテーマで「庭プロジェクト」を立ち上げた動機なのだけど、今回発表してもらった田中さんの鎌倉への取り組みにはかなり具体的なこれから僕たちが直すべき「都市」のビジョンの手がかりがあるように思えたのだ。以下、具体的に解説しよう。

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僕はもはやFacebookやTwitterは意見を表明する場所としては相応しくないと考えています。日々考えていることを、半分だけ閉じたこうした場所で発信していけたらと思っています。

宇野常寛がこっそりはじめたひとりマガジン。社会時評と文化批評、あと個人的に日々のことを綴ったエッセイを書いていきます。いま書いている本の草…

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