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平成の「改革」という「物語」が終わったあとに、この国の政治に必要なことは何かを考えた話

さて、やはり先日の衆議院補選についてはさすがに書いておかないといけない。僕は東京15区で乙武洋匡さんを応援した。さすがに、小池百合子と組むのはないんじゃないかと思ったし、それを本人に下記の動画でぶつけたりもしたけれど、応援した。

理由は二つあって、それは乙武さんの「政治」への生半可ではないこだわりを個人的に知っていたからで、そして良くも悪くも節操のない彼なら、もし小池百合子が日本初の女性総理になるために、危険な「賭け」に出たりした場合は容赦なく裏切ってくれると考えたからだ。

しかし、選挙の結果は悲惨なものだったと思う。少なくとも乙武さんの知名度がいま、票に結びつかないことが証明されてしまったことは間違いなく、これはゼロから戦略を練り直さないといけないところに追い込まれたと考えるべきだろう……。

言い方を変えれば、平成の政治「改革」勢力は結局手段としての右派ポピュリズムと最後の最後まで、縁が切れなかったということに尽きるのだと思う。その結果、今や一時代「前」のものと認識され、求心力を失っているのだ。

僕はこの選挙で残念ながら平成の「改革」の遺伝子は地味に今回の補選で止めを刺されたように思う。僕の考えでは、この「改革」勢力がウイングを伸ばせない最大の原因は「モラル」が欠如しているからだ。今回の件で言えば、さすがに百合子とひろゆきはないだろう、という感覚が「ない」ことが大きな敗因だ。

それは遡れば小泉純一郎が靖国神社を参拝したり、橋下徹が石原慎太郎と組んだりしたところまでさかのぼるのだけど、彼ら平成の「改革」勢力は「脱戦後的」であることに執心しすぎていたように思う。しかし僕たち彼らの支持層である都市部の現役世代の多くは、経済・外交的にはリアリズムを支持しながらも、社会・文化的にはリベラルな感性を持っているはずだ。しかし第三局のプレイヤーの多くが、ここを大きく見誤っているように思う。

その結果として、彼らは手段としての右派ポピュリズムーーときに歴史修正主義への加担などマジョリティの露悪的な本音主義への迎合を含むーーを「あり」にしてしまっている。この「脱戦後的であることを」戦後民主主義的な建前論への攻撃であると誤解した結果「モラル」を軽視するーーここに問題があるように僕は思うのだ。

さて、その上で今回考えてみたいのは「今後」のことだ。負けた人にダメ出しをして自分を賢く見せる(そしてコンプレックス層の歓心を買う)ゲームは他の言論人が一生懸命やると思うので、僕は他のことを考えてみたい。

要するにこの3選挙区の結果、特に東京15区の結果はかなり「新興保守」陣営に危機感を与えたはずだ。具体的には日本維新の会と国民民主党、そして都民ファーストのことだ。

国民民主党を新興保守にくくるのはさすがに左翼的な思考停止だと僕も思うが、彼らが今回頼りにした都民ファーストは実質小池百合子の政争のコマ的な団体であり、そして小池は石原慎太郎、猪瀬直樹の血を間接的に受け継いだ、現代的なポピュリストという位置づけが妥当だろう。これに日本を代表する保守ポピュリズム政党(と、表現したら関係者は怒るだろうが)日本維新の会を加えた面々が個別に候補者を立てた結果、立憲民主党と共産党のタッグに手も足も出なかったのが今回の東京15区だ。

彼らの危機感を煽っているのはいわゆる「立憲共産党」体制の盤石さだけではなく、参政党や日本保守党といった正真正銘のインターネット発の保守カルト(ついにこの波が日本に来たか……)に猛追されているいう危機感だろう。

と、なるとどこかでこれらの面々が「選挙協力」しはじめる可能性は将来的にはゼロじゃないはずで、これがものすごく僕は日本の将来に暗い影を及ぼすと思う。

具体的にはその結果、今後の国政は「自由公明党」「立憲共産党」「国民維新の会」の三国志+極限カルト政党(れいわ、参政、保守)になる可能性がある程度あり、そうなるといよいよ僕などどこに投票してよいか分からなくなってしまう……。

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僕はもはやFacebookやTwitterは意見を表明する場所としては相応しくないと考えています。日々考えていることを、半分だけ閉じたこうした場所で発信していけたらと思っています。

宇野常寛がこっそりはじめたひとりマガジン。社会時評と文化批評、あと個人的に日々のことを綴ったエッセイを書いていきます。いま書いている本の草…

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