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「幸福」「ウェルビーイング」を社会的な価値として「定義」したくなる人間の欲望はかなり危険なのではないかという話
先日、楽天大学ラボの収録で久しぶりに石川善樹さん、矢野和男さんとお話した。テーマは「幸せとAI」という大きなもので、詳しくは来月公開される動画を見て欲しいのだけれど、今日はその対話で考えたことについて書いてみたい。
その中で矢野さんが議論の材料に用いたのが下の図で、現代における「幸福」とはこのように「定義」できるのだと言う。
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なるほどな……と深く納得するその一方で、僕はもうちょっと別の「幸福」像のようなものについて考えざるを得なかった。「心理的安全性」と「心の資本(前向きさ)」の掛け算が幸福だ、とは、少なくとも僕には言えないな、と思ったのだ。そしてこれは僕が「ウェルビーイング」という言葉……というか、この言葉を共有してしまいたくなる現代人の心理に抱く違和感をよく、表している。結論から述べてしまうと、僕は人間の「幸福」というものを社会的なものとして共有すべきではない、と思う。苦痛を減らす、アンフェアなものを減らす、という価値は共有できる。しかし「……ではない」ではなく「……である」という「幸福」を社会の単位で共有するのは難しく、むしろ危険だというのが僕の結論なのだ。
どういうことかというと、たとえば坂口安吾の『続戦争と一人の女』に、空襲で夜の空が焼けるのを「美しい」と感じる女性が登場する。これは太平洋戦争末期の日本を舞台にした小説で、彼女自身もまた、空襲で生命の危険に晒されている。しかしそういった現実的な生命の危機や、敗戦の予感のもたらす社会的な不安が存在する一方で、彼女はただそれを美しいと感じる。それは言ってみれば、ただ自分が何も関与することなく世界が変化する予感のもたらす恍惚とした快感を得ている状態だ。それはもしかしたら……いや、たぶん「幸福」と呼べるもののはずなのだ。そして彼女の幸福は確実に「心理的安全性」と「心の資本」の交点にはない。いや、そもそもそういったものと無関係に存在しているとしか考えられない。
これは創作物のなかの、それも特異な例だと考える人もいるかもしれない。しかし、本当にそうだろうか。この女性の感性は、ありふれたものだと僕は思う。大戦末期という置かれた状況が特殊なだけで、彼女の世界が燃えるのを見たいという欲望は、自己の関与なく世界が変化するさまを見たいという欲望は、むしろ人間の基本的な欲望ではないだろうか。
実際につい最近のコロナ・ショックのことを思い出してもらえたらいいと思う。そこで僕たちは「世界が変わる予感」に心のどこかでワクワクしなかったと、本当に言えるだろうか?
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u-note(宇野常寛の個人的なノートブック)
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