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「つくる」から「授かる」へ 『マタギドライヴ』の旅 #8

先日、僕が司会を務めた落合陽一さんと石倉敏明さんとの対談が公開された。

このnoteで連載している秋田への取材をアレンジしてくれたのがこの石倉さんで、ぜひこちらも観てもらいたい(僕のこの対談についての振り返りは、この記事を参照してほしい)。

もう少し経つと、同じチャンネルで僕が同じように司会を務めた座談会が公開される予定だ。この座談会は落合君と、ついさっき一緒に森に入って案内してくれた永沢さんと益田さんに、さらに彼らの仲間である二人の若者を加えた5人の座談会だ。一人は農業を営みながらマタギとしても活動する木村望(きさん、もう一人はクマの皮のレザークラフトの製造を手がけながら、マタギとしても活動する山田健太郎さんだ。この4人はほんとうに「たまたま」ほぼ同じ年で、そしてほぼ同時期にそれぞれの理由でこの阿仁に現れ、活動するようになったという。

こうして書くと意地悪な人は、ありがちな意識の高い若者たちが地方創生に活躍して……というストーリーを聞かされると思うかもしれないが、そういう難癖をつけられそうなところを探したくなるタイプの人こそぜひ、動画の方を最後まで見てほしい。(特に座談会の後半で)ここで交わされたのは、人間と土地とのかかわり方についての、(僕を除いて)ほぼ同世代による議論なのだ。

動画の内容をダイジェストで紹介しても仕方がないので、僕なりに要点を紹介しながら論じよう。議論の中で、彼らは「授かる」という概念にこだわっていた。「マタギ」の世界では、獲物を仕留めることを「授かる」と表現する。これは後述する山岳信仰の影響によるものだという。この「授かる」という概念が落合君の主張する『マタギドライヴ』の世界観にリンクする。

『マタギドライヴ』は、AIが社会の中心を担う時代の、人間の実存について考える本だ。物事を「回す」「調整する」ことは、もはや人間の仕事ではなくなる。人間に残された最大の仕事は「つくる」ことだ。しかし当然「つくる」ことにもAIは侵入してくる。では、人間の生の喜びはどこに見出されるのか? そこで落合陽一が注目するのが「民藝」的なアプローチだ。

それ(「民藝」的なもの)は自己表現としてではなく暮らしの必然とその中での快楽のためにつくられたものだ。このような誰が作ったかが問われないものを、そしてその土地や自然とのつながりが感じられるものを「つくる」ことが21世紀の人類の実存において、大きな位置を占める……それが彼の主張だ。この「つくる」は自己実現、自己表現としての「作品」を世に問う行為とはかなり距離がある。落合陽一も、そしてこの場にその日いた永沢さんも普段は一人のアーティストとして「作品」を制作している。しかし、彼らはともに「制作する」ことの外側を感じながら手を動かしているのだと思う。だからマタギの「授かる」という言葉に落合君は反応したのだろう。

マタギたちは獲物を「授かる」と考える。それは自分たちが「獲得した」のではなく、あくまで自然のサイクルの中の一部に自分たちが組み込まれているために「与えられた」のだととらえるのだ。落合陽一の主張する「テクノ民藝」は言い換えれば自己実現/自己表現としての作品制作ではなく、「つくる」ことでの世界とのつながり(デジタルネイチャー化しているので、この世界はアナログな「自然」とは限らない)を確認し、快楽を得る行為だ。ここで、マタギたちの「授かる」と落合的「テクノ民藝」は通じるのだ。

よくよく考えてみれば、初期インターネットの理想主義が敗北したのはこの「つくる」という回路をうまく使えなかったからだ。

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僕はもはやFacebookやTwitterは意見を表明する場所としては相応しくないと考えています。日々考えていることを、半分だけ閉じたこうした場所で発信していけたらと思っています。

宇野常寛がこっそりはじめたひとりマガジン。社会時評と文化批評、あと個人的に日々のことを綴ったエッセイを書いていきます。いま書いている本の草…

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