「議論」を成立させるためには「論破しない」「貶めない」「観客と馴れ合わない」ことが大事なのではないかという話
気がついたら12月に入ってしまった。僕の主宰するPLANETSでは、毎年この時期に渋谷ヒカリエで年忘れトークイベントを開催している。今年は16日(土)の開催だ。3部構成で、第1部はカルチャーシーンの総括だ。ここでは村上春樹と宮崎駿という両「国民作家」の新作やバーペンハイマー騒動など、23年の「文化」について総括する。
第2部は都市開発をテーマに、僕が今年から始めた「庭プロジェクト」のメンバーと、アフターコロナの都市設計や都市のスマート化についての議論をする。第3部が、毎年おなじみの社会問題についての総括トーク(メインステージ)だ。今年、登壇者に国会議員がいないのは衆議院の解散の可能性があったからなのだけど……今日、僕が書きたいのはこの3部のことだ。
結論から述べると、僕はこの3部のセッションを、いま準備している新しいメディアのプロトタイプにしようとしている。そしてそのコンセプトは「論破しない」「貶めない」「観客と馴れ合わない」だ。なぜ、この3つが必要なのか。そしてどうすればそれが実現できるのかを、ここから書いていきたい。
まず「論破しない」ことについて。昨日、「リハック」の米山隆一とひろゆきとの対談に少し触れた。この対談の中で米山が指摘してる通り、ひろゆきという固有名詞が象徴している「論破」は実のところ、「論破」でもなんでもない。
この種の「討論バラエティ(「朝まで生テレビ」「ニコ論壇」「アベプラ」など)はすべて同じフォーマットで、そもそも「議論」などしていない。実際にそこで行われているのは、知識や思考力に乏しい視聴者をいかに「騙すか」というゲームに過ぎない。
当たり前のことだけれど、大きなメディアの視聴者の多くは議論の前提となる知識もないし、調べて補うほどの動機もない(あるはずがない)。加えて、動画のコメント欄やソーシャルブックマークでイキるようなアクティブな視聴者の多くは、自分があまり分かっていないことを分かっていない。そのためにそれがまったくエビデンスに基づいていないものや、論理的に破綻しているものであっても、すぐに返答できないようなボール(すぐには調べられないようなデータについて尋ねるとか、知識のない人は関連することだと誤解してしまう別問題を混ぜ込むとか)を投げると、相手が一瞬ひるむのでボールを投げたほうが「勝った」ように誤解してしまう(そもそも、「勝ち負け」で見ている時点でどうしようもないのだが)。また、相手を露骨に侮辱するとカチンと来たり驚いたりするので、そこでもあまり考える力がない視聴者に対しては自分が優位だと騙すことができる。
この種の「討論バラエティ」とは、実質的にはこういった小手先のテクニックで自分を賢く見せるゲームにほかならず、そういったものを正しく軽蔑してまがりなりにも「議論」しようとする学者や代議士が痛い目を見る、という構造が定着していた。この「朝ナマ」→「ニコ論壇」→「アベプラ」を受け継がれた手法は、日本のジャーナリズムをかなりダメにしたと思う。
そして16日に僕が主宰するような多人数のトークセッションでは一人でもそういった「リテラシーの低い人を騙して他の登壇者を貶め、自分を賢く見せる」ことをしたがる人がいたらまったく中身のある議論ができなくなる。そして主催者(演出側)に、この種の「討論バラティ」的な見せ方をしたいと考えている人が一人でもいたら、やはり「議論」は不可能になる。
では、どうするか。
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u-note(宇野常寛の個人的なノートブック)
宇野常寛がこっそりはじめたひとりマガジン。社会時評と文化批評、あと個人的に日々のことを綴ったエッセイを書いていきます。いま書いている本の草…
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