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「である」ことでも「する」ことでもない、「弱い自立」を考える(「庭の話」#18-2)

このマガジンでは僕が『群像』誌で連載していた『庭の話』を、数ヶ月遅れで掲載しています。今回載せるのは第18回です。過去の連載分は購読をはじめると全部読めるように設定し直しておいたので、これを機会に購読をよろしくお願いします。(今回、長いので3分割しました。これが2回目です。今月購読すると全部読めます。)

4.怪獣使いと少年

 小川の紹介するタンザニア人たちのインフォーマルマーケットの世界は、読者に強いあこがれを抱かせる。私もそのうちの一人なのだが同時に、自分にはちょっとこの世界に暮らすことは難しいと感じてしまうのも事実だ。それは確かにUberやAirbnbのプラットフォームによる、一度負の評価が累積すると回復の難しい格付けの過酷さから解放されるその一方で、共同体の一員としてその文脈を共有し続けることの過酷さが、やはり存在するように思えるからだ。

 たとえば、このような物語がある。70年代の日本のある街の片隅に、地球に漂着した宇宙人(メイツ星人)の老人がいる。街の人々は、素性の知れない彼を受け入れない。唯一彼と交流するのは、明示されないがおそらく被差別部落またはコリアンタウンに暮らす、身寄りのない少年だけだ。少年はメイツ星人の老人のために、なけなしの金銭を手にして商店街のパン屋にパンを買いに行く。しかしパン屋の主人は少年にパンを売ることを拒否するのだ。
 果たして地球に漂着したメイツ星人の老人(と親しい少年)に、パンを売ることができるのはUberやAirbnb的なサービスなのか、それとも「TRUST」なのか。私の考えはどちらも十分には「できない」というものだ。
 前者の「評価」はプラットフォームへ参加した後にゲームで一定以上の勝利(評価の獲得)が要求され、後者の「信頼」は共同体の一員として内部の文脈を共有している必要がある。では、物語の中で少年はどのようにしてパンを手に入れたのか。
 パンを売ってもらえず、打ちひしがれて商店街を去る少年をパン屋の娘が呼び止める。彼女は、親の反対を押し切って少年にパンを売る。彼女が語るその理由は「うちはパン屋だから」だ。少年は現金と引き換えにパンを手に入れる。
 シェアリング・エコノミーは既存のプラットフォーム上に開かれたゲームを展開し、そのルールの明確化によって参入のハードルを下げている。対して共同体内の相互扶助はプラットフォームをハックするかたちで閉じたゲームを展開し、文脈の共有によってその継続コストを下げている。しかし前者は一度低い評価が蓄積するとその挽回が難しく、後者は承認を得る前提となる文脈の共有が人間の自由を制限する。
 どちらのモデルも、大きな示唆を与えてくれる魅力的なものだが1点だけ現状のシステムが優れている点がある。
 どちらのモデルも単に現金を持って店頭に行けば、たとえそれが被差別部落出身の少年でもメイツ星人でもM78星雲人でもパン屋はパンを売る世界の、自由と公平さにはまったく及ばないのだ。そこがパン屋であればたとえ相手が誰であれ、一定の貨幣を代価として支払えばパンを得られる社会こそが、本当に弱い立場に置かれた人をケアすることができる。この1点においてのみは、既存の資本主義市場のほうがこれらの「新しいモデル」よりも優れている。
 ちなみに、この物語の中で、メイツ星人は結局住民のリンチにより虐殺されてしまう。あなたは、自分がメイツ星人の立場に置かれても仕方がないと本当に思えるだろうか? 思える人だけがシェアリング・エコノミーこそが資本主義の未来像だとビジネスカンファレンスで主張し、大学やマスメディアの与えるビニールハウスの中から共同体の自治で資本主義に対抗するのだとロマンチックに語ればよいと思う。私が柴沼や小川の議論をここで援用しているのは、これらの議論がこうした欺瞞を超えて現状の資本主義の現実的な、しかししっかりと批判的な改良を模索しているものだからだ。

 柴沼と小川の議論は、その方向性はまるで異なっている。しかしともに既存の資本主義の一部を改変することで、社会に大きな変化を与えるポテンシャルを秘めていると考える点で共通している。
 私たちは柴沼の議論を、手を動かすよりも社交に時間を割き、あらゆるプロジェクトに「いっちょ嚙み」してそれにさもキーパーソンとしてかかわったかのように吹聴する「業界ゴロ」の正当化に用いるべきではないし、小川の議論を贈与のネットワークを掲げプラットフォームを批判し、人文学が工学を相対化して溜飲を下げるといった極めてつまらないことの道具に矮小化すべきでもない。
 柴沼の議論で重要なのは今や市場が株式会社に代表される従来の「共同体的な」組織を、要求しなくなっていることを示し、そのオルタナティブを提案している点だ。そして小川の議論で重要なのは、このプラットフォームに(ときにインフォーマルに)コミットする自営業者であることが─それが意識の高いアントレプレナーでなくとも、いや、それとは程遠い小商いの担い手であるからこそ─人間をあるレベルで自由にすることを示していることだ。さらに言い換えれば、そこには極めて消極的な、「弱い自立」ともいうべきものが成立していることなのだ。

 ここで私たちが選択すべきは、いま市場において支配的な21世紀の〈グレート・ゲーム〉のプレイヤーとして自己啓発に勤しむ(ことで世界に対し現状肯定の言葉しか語れなくなる)のでもなければ、資本主義の外部を提示すること(左翼的に振る舞うこと)を手段ではなく目的と化して、理論的にも破綻し実証的にも足りない事例をロマンチックな修辞で誤魔化しながら陶酔気味に語ることでもない。
 本当に批判力のあるモデルは、これまで考えてきたようにむしろ資本主義と都市の内部にある。そこで獲得すべきものは「家」ではなく「庭」であり、そこで人々が集うのはグループではなくコレクティフであり、共同体ではなく社会であり、(事実上、カルト的なイデオローグに支配されている)自治のためのアソシエーションではなく、アグリゲーターを内在した新しい株式会社とプラットフォームのハックといったものが実現する、資本主義のプレイヤーとしての「弱い自立」なのだ。

5.「である」ことでも「する」ことでもなく

 ここで柴沼と小川の議論を接続したのは、そうすることでジェレミー・リフキンの『限界費用ゼロ社会』が示す「協働型コモンズ」が代表する、シリコンバレー的な技術主義の述べるユートピア的な未来像の弱点を補う視点を与えてくれるからだ。
 リフキンは再生エネルギーと情報技術の進化、とりわけIoT(モノのインターネット)の浸透が限界費用、つまり商品やサービスを1つ追加で生み出すコストが、限りなくゼロに近づく状態をもたらすと主張する。限界費用がゼロになるとは、インターネット上の文章や画像をコピーするコストがゼロであることを考えれば理解しやすいだろう。リフキンはこの「限界費用ゼロ社会」の到来は、資本主義の構造を根底から変貌させるという。生産手段を手に入れるコストが圧倒的に下がるために、現在の規模では資本主義を支える産業が成立しなくなるというのがその主張の骨子だ。
 これは物質的な豊かさが飽和することをほぼ意味する。そのために近い将来、人間の欲望はこれまで以上に社会的、精神的なものへと向かう。具体的に人々が求めるのは「共感」だ。株式会社の多くは、「協働型コモンズ」に取って代わられる。これは企業とは異なり、同じ価値観を「共有」した人々による「組合」だ。その目的は利潤ではなく、メンバーが共有する価値観をその生産活動の中で実現するため、力を合わせるというものだ。
 一見、これは情報技術を「資本主義の反省」に用いて、社会をより人間主体のものに進化させたユートピアに見えなくもない。しかし、落ち着いて考えてみれば良い。『限界費用ゼロ社会』は2014年に出版されたものだが、2020年代の今日において私たちは「共感」を媒介に作られる集団がどれほど息苦しく、残酷で、人間を愚かにするかを、そしてその愚かさを「情報技術」が最大限に支援することを既に思い知っているはずだ。ちなみに、リフキンは日本について、こう述べている。

〈農業協同組合や自治会といった日本の協同組合はすべて協働型のコモンズです。欧米ではあまり知られていませんが、日本が経済大国になったのは日本人が古来から実践してきた協働という文化がコミュニティをつくってきたからなのです。〉

 リフキンにはぜひとも、町内会の行事に参加しない移住者にはゴミ捨て場を使わせないといった類の「村八分」をこの21世紀に正当な権利と信じて疑わないこの国の片田舎で数年間生活した上で、同じことが言えるかを試してもらいたい。もちろん自身がリフキンであることを捨て、資産も捨て、名もなき一市民として移住してもらいたい。リフキンのこの発言は遠い国の後進性を現状批判の道具として、ロクに調べもせずに引用すると恥を晒すという典型例として記憶されるべきだろう。

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僕はもはやFacebookやTwitterは意見を表明する場所としては相応しくないと考えています。日々考えていることを、半分だけ閉じたこうした場所で発信していけたらと思っています。

宇野常寛がこっそりはじめたひとりマガジン。社会時評と文化批評、あと個人的に日々のことを綴ったエッセイを書いていきます。いま書いている本の草…

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