『めくらやなぎと眠る女』と「日本」の問題
昨晩は石岡良治さん、三宅香帆さんと3 人で映画『めくらやなぎと眠る女』についての座談会を収録した。
今日は一晩明けて、そこで話したことをベースに改めて村上春樹について考えてみたい。
この映画は村上春樹の短編『かえるくん、東京を救う』、『バースデイ・ガール』、『かいつぶり』、『ねじまき鳥と火曜日の女たち』、『UFOが釧路に降りる』、『めくらやなぎと、眠る女』の6編をフランスのピエール・フォルデス監督が1つの物語に再構築したものだ。
僕がこの映画を観て考えたのは前期村上春樹ーー『ねじまき鳥クロニクル』以前のーー再評価の可能性だ。
一般的に、村上春樹は『ねじまき鳥クロニクル』以降「デタッチメントからコミットメントへ」転回したとされる。本人がインタビューでその旨のことを述べたことの影響が大きいが、実際に彼の主戦場である長編作品の変遷をたどると、その側面は確かに確認できるだろう。つまりマルクス主義の代表する政治的イデオロギーから、(全共闘的なものの敗北を経て)「やれやれ」とデタッチメントすることから出発した村上は、ポストモダン的な相対主義に留まるのではなく、新時代の倫理を模索し、新しいコミットメントのかたちの模索をはじめた、ということだ。
そして『ねじまき鳥クロニクル』では「歴史」へのコミットメントが描かれる。それは従来のマルクス主義や天皇主義のような政治的なイデオロギーに基づいたコミットメントではない。物語的な想像力を行使して、人間が歴史にランダムにアクセスするというものだ。
たとえば、現代人の意識に1930年代の満州を生きた人々の記憶が流れ込む。このとき歴史的な文脈は一瞬、リセットされる。その状態で彼/彼女は出来事に遭遇する。そのとき触れた出来事についてのジャッジは、イデオロギーや歴史的な文脈を一時停止して純粋に倫理的に行われる。たとえ関東軍だろうが赤軍だろうが馬賊だろうが、捕虜虐待は「悪」だ。この歴史的な文脈を一時的にキャンセルすることで、人間ははじめて倫理的に振る舞うことができる。そして物語の力で、その倫理は継承される……これが、村上が『ねじまき鳥クロニクル』で示した「コミットメント」のモデルだ。
しかしこの「コミットメント」には弱点がある。要するに既存の文脈をキャンセルした歴史へのコミットメントというのは、歴史をデータベースとして見なすということだ。そして今日のインターネットがそうであるように、それは陰謀論の温床になる。たとえ誰が主体でも捕虜虐待は「悪」だと感じる。そこまではよい。しかし人間はその後も生き続ける。そして人間は弱い。自分の欲望する解釈を、そこに与えてしまう。事後的に、あの捕虜を虐待していた悪人はソ連の赤軍のスパイに違いない……といった都合の良い解釈が(既存の文脈を無視しているために)歯止めなく成立してしまうのだ。
村上はこの問題を「強さ」で解決しようとする。その結果として導入されるのが、女性性の収奪による男性ナルシシズムの強化だ。物語の結末では、一度主人公の元を去り、彼が彼女を救うために奮闘していた主人公の妻・久美子が主人公に成り代わり悪の象徴である人物を殺害し、その罪を被る。つまりコミットメントのコスト(暴力の罪)を、主人公を無条件に求め、その男性ナルシシズムを満たす役割を負った「妻」が代わりに支払っているのだ。(そのためか、家長崩れの男性読者にいまだに『ねじまき鳥クロニクル』はこのような諸問題をスルーしながら強い信奉を寄せられている……。)
こうした村上の性搾取的な側面はフェミニズムから多くの批判を浴びることになる。しかし村上にとってコミットメントと男性性は切断できないもののようで、近作『騎士団長殺し』などでは性搾取の度合いが下がると同時にコミットメントも縮退するのだ。
(この問題は『砂漠と異人たち』に詳しいので、こちらを参照してほしい。)
さて、前置きが長くなったが本題だ。
『めくらやなぎと眠る女』では、『ねじまき鳥クロニクル』の原型となった短編『ねじまき鳥と火曜日の女たち』のエピソードが盛り込まれている。『ねじまき鳥クロニクル』同様に、主人公の妻は失踪する。しかし『ねじまき鳥クロニクル』とは違い、この『めくらやなぎと眠る女』の「妻」には別の名前(京子)が与えられている。京子はベースとなった他の5つの短編のうちいくつかの女性登場人物の役割を担い、『ねじまき鳥クロニクル』の久美子とは完全に別人として造形されている。(ちなみに上記の動画では、僕が記憶違いをしたまま『ねじまき鳥と火曜日の女たち』について主人公の妻が終始不在だと話しているが、実際には結末近くで帰宅している。これはただの僕の勘違いで、恥ずかしい限りだがそれくらい原作の淡白な描写とアニメ版の彼女の造形と位置付けは大きく違い、過去や内面が描かれ別人化しているのだ……。しかし、記憶違いで話してしまったのは本当に申し訳ないです。反省します。)
そして京子は久美子とは異なり、夫(男性主人公)の性搾取の対象にならない。彼のナルシシズムを満たすために心の底から求めたりもしないし、彼の代わりにコミットメントのコストを担って罪を償うこともない。そして、物語の結末では夫の知らない土地で新生活をはじめる姿が描かれ、そこで夫婦生活の行き詰まりとともに象徴的に失踪した「猫」とも再会するのだ。
ここから先は
u-note(宇野常寛の個人的なノートブック)
宇野常寛がこっそりはじめたひとりマガジン。社会時評と文化批評、あと個人的に日々のことを綴ったエッセイを書いていきます。いま書いている本の草…
僕と僕のメディア「PLANETS」は読者のみなさんの直接的なサポートで支えられています。このノートもそのうちの一つです。面白かったなと思ってくれた分だけサポートしてもらえるとより長く、続けられるしそれ以上にちゃんと読者に届いているんだなと思えて、なんというかやる気がでます。