福田和也さんについて思うこと
福田和也さんが亡くなった。僕は福田さんとは、シンポジウムで一度だけ顔を合わせただけで、ほとんど面識はない。なので、あくまで「読者」として福田和也に接してきた。それも、決して良い読者ではなく網羅的にその仕事を把握しているのかと言われると、まったくそうではない。なのでほとんど福田和也について語る資格はないと思うのだけれど、それでも90年代に青春期を過ごした人間にとって、福田和也という固有名詞には影響を受けざるを得なかったし、思うところも多々ある。そこで、今回は簡単にだけれど、いま「福田和也」について考える上での僕なりの論点を提示してみたい。
僕がこのタイミングで「福田和也」について考えてみたいことは二つある。その二つの問題は、根底でつながっていると思うのだけれど、入り口として、いったん別々に考えてみようと思う。
一つ目は、彼の「保守」性だ。90年代の後半には、国内の「保守」言論には二つの方向性があったように思う。一つは、今日の「ネトウヨ」や「冷笑系」のルーツとなる被害者意識に基づいた「保守」で、戦後日本的な「不能の父」のナルシシズムを「保守」するために、自分たちを「不能」に追い詰めた(いう被害妄想の対象となる)「左翼」的なものや、中国/韓国を攻撃する(しかし、「アメリカ」には媚びて、自分を「強い側」に置こうとする)タイプだ。(余談だが、表面的にはマッチョなものを嫌い「不能」であることを引き受けようとしているオタク層が、「冷笑系」にはあっさりと合流して、「左翼」を叩くことで自分を「強い側」に置きたがる人が多いのは、そもそも「不能」性に拘泥しているその時点で、彼らが「父」として振る舞うことに、つまり「女子供」を所有する欲望に囚われているからではないかと思う。)
当時西尾幹二や彼が代表を努めた『新しい歴史教科書をつくる会』が代表していたこのタイプの保守ーーネトウヨ/冷笑系ーーに対し、もう一つの保守の流れが、西部邁や佐伯啓思などのアンチ・グローバリズムとしての「保守」、つまりコミュニタリアンとしての「保守」で、当然こちらは「反米」色が強い。そして西部邁に近い位置にいた福田和也はコミュニタリアンとしての「保守」と位置づけることが、一旦はできると思う。しかし、僕が気になっているのはその後の福田さんの仕事を遠くから眺めていると、彼の「保守」しているものの内実が、奇妙なねじれのようなものを抱えていたのではないか、ということなのだ。
僕がこの仕事をするようになって、西部邁さんとは何度か同席する機会があった。当時(最初に同席したのは、2010年くらいだったように記憶している)は、西部さんはほとんど近代社会の個人化そのものを批判するような立場から意見を述べていた。たとえばシングルマザーがネグレクトで子どもを死なせてしまったという問題に対し、「いい男といい女が出逢えばこんな事件は起きないのだ」といったほとんど無内容な精神論を述べていて、いくらテレビとはいってもやけっぱちにすぎるのではないかと思った記憶がある。今思えば、西部さんには「やけっぱち」になる理由があったのだと思うが……。
対して福田さんのほうは西部さんに対して、かなり具体的な事物を「保守」しようとしていたのだと思う。彼が大学のゼミ生を中心に「人を育てた」ことはよく知られているけれど、彼が「保守」したいものというのは要するに東京の、曲がりなりにもこの国の近代文化を育んできたコミュニティの「伝統」みたいなものだったのだと思う。「業界」のコミュニティを回して、介入し、若い人に「場」を与え、カネを引っ張ってきて、「遊び方」を教えるーーそういった「伝統」が文化を維持するためには必要なのだと、福田さんは考え、実践していたのではないかと思う。要するに「伝統」という実体があるのではなくて、コミュニティを回し、継承する人間の「あり方」のようなものが「伝統」として残っていることが大事……ということだったのではないかと想像している。
そして僕はこの「業界」的なものに、まったくノれなかった。これがふたつ目の論点だ。
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