『成瀬は天下を取りにいく』と「地元」の問題
僕は宮島未奈の「成瀬」シリーズ(『成瀬は天下を取りにいく』『成瀬は信じた道をいく』)が好きで、これについてどこかで書きたいとずっと思っていながらも、どう触っていいか考えあぐねているうちに本屋大賞も獲ってしまいそうになくらい有名になってしまった。だから慌てて書く……ということでもないのだけど、ようやく書けそうな切り口が見つかったので思考実験的に書いてみたいと思う。
このシリーズの魅力の中核にあるのは、どう考えてもヒロインの成瀬あかりの人物造形と、その愛すべき「変人」ぶりを彼女に振り回される「それ以外の人々」の内面を通じて描く手法の卓越なのは間違いない。しかし今回は、こうしたことは一度横においておいて、僕がこの二冊を読み返して改めて考えたことについて書いてみたいと思う。それは「地元」への視線だ。
この成瀬あかりというヒロインを大きく特徴づける要素に「地元愛」がある。一度都会に出たヒロインが朝ドラ現代劇の後半戦のように「地元の良さ」を再発見して東京でのキャリアを捨てて帰郷……といった自治体のパンプレットみたいなイデオロギーではなく、成瀬は「単にそこが生まれ育った場所だから」という理由で、素朴に愛している。これは僕のような地方出身者にとっては、シンプルであるがゆえになかなか考えさせられるスタンスだ。
たとえば作者の宮島よりも5歳年上の僕は、8歳年上の宮藤官九郎が『池袋ウエストゲートパーク』や『木更津キャッツアイ』で、「地元のホモソーシャル」に閉じた幸福を描き出したとき半分は共感し、半分は違和感を覚えた。つまり気合を入れて東京に出て自己実現して、伴侶を得て、子供を設けて……といったタテの成長物語よりも、ヨコのつながりをベースに、ゆっくり大人になっていく(老いていく)幸福感を大事にしたい、といった部分には共感できる一方その「地元」がどこか下町的な「情」の世界、もっといってしまえばムラ社会への居直りに見えてしまったことも間違いない。
だから僕は彼が『タイガー&ドラゴン』で「浅草」の「大家族」に回帰したときに、やっぱり僕とクドカンは違うのだなと思った(その違いを楽しむようになった)し、『あまちゃん』でのあのすべての政治的なことや歴史的なことを小劇場的なクスクス笑いと「内輪」の傷のなめ合いで「やりすごす」態度には、「それはあまりに下の世代に無責任なのではないか」という違和感を覚えた。『いだてん』の「国威発揚としてのオリンピックはけしからんが、「みんな」が望んだオリンピックならOK」だという態度は、はっきり言ってしまえば僕たちがテレビバラティやジャニーズ問題に感じている「戦後中流の〈下からの全体主義〉」のマズさが、まったく分かっていないのだなと明確に思った(もちろん、だからダメな作品だというわけでもない)。
すっかり宮藤のことを書いてしまったが宮島の、いや、成瀬の話に戻ろう。要するに成瀬は、僕が宮藤に感じる昭和的な、というか戦後中流的(テレビ的)なものへの居直りとは異なるルートでの「地元」への愛を実現しているように思うのだ。
僕が宮藤の作品に出会った頃、あるいは『下妻物語』の映画版がスマッシュヒットしていた頃、この国の地方の変貌は「ファスト風土」と揶揄され、モータリゼーションと大店法改正の作り上げた画一化された消費環境を反映した風景(日本中どこに行っても、大手チェーンの大規模店舗が並ぶ)はやり玉に上がっていた。しかしこれらの作品に、というかそれらを観ていた当時の地方の若者は、そのネガティブなイメージを反転させる肯定性を見出していたと思うのだ。
それは言ってみれば「ここ」が自分の土地であるという「実感」がありながらも、土着の共同体の不自由さがない、という感覚だった。
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u-note(宇野常寛の個人的なノートブック)
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