土地と人間のかかわり、その二つのアプローチ(『マタギドライヴ』の旅 #11)
今日は、一連の秋田取材旅行記の最終回ということで、ちょっとしたまとめのようなことを書いてみたい。それは土地と人間のかかわりかた、のようなものについてのことだ。
鈴木さんのお手製の熊鍋で腹を満たした僕たちは、そのまま彼の納屋に案内された。そこには重要文化財の指定を受けているような、マタギ猟にかんするさまざまな道具や資料が収められていて(普通に、しかも割と無造作に「火縄銃」とかがある)、ちょっとした博物館のような空間になっていた。
鈴木さんはその一つ一つを丁寧に解説してくれたのだけど、解説を聞きながら僕は考えた。他所の土地を訪れるとは、どういうことか、と。
僕は若い頃からあまり「観光」というものが好きじゃない。それは函館とか京都とか、観光地に暮らして大人になってきた……といった経験が大きく作用していると思う。なので、よほどのことがないと僕は観光地にはいかない。さすがにルーブル美術館やメトロポリタン美術館には足を運んだけれど、大抵の場合は、その街を歩いて、食事をする。そしてスーパーで果物やお菓子など、ホテルの部屋で食べられるものを買って食べる。あとはカフェで仕事をする……といった過ごし方をする。要するに、違う土地では違う暮らし方があり得るのだ、というのを疑似体験するのが好きなのだ。
今回の取材旅行は「取材」だから当然のことだけど、かなり特別な体験をしたと思う。しかしよく考えてみれば僕たちがやったのは山を歩いて、そしてその土地のものを食べただけだ。しかし、それでいい……というか、それが良かったのだと思う。その土地を歩いて、その土地のものを食べる。これが実は旅の全てなのではないか、少なくとも僕の求めている旅の全てなのではないかと思うのだ。
その土地を歩いて、そこで採れるものを食べること。これがすべての文化の基本なのは間違いなくて、他のことは、究極的にはメディアを介しても得られる「情報」に還元できるのだと思う。僕は子供の頃に、長崎の小学校で被爆者の体験を生で聞かされたことを、大切な体験だと思っている。しかし、ここで肉声が失われ、情報に還元されてしまうとその力を失うという立場に立つと、近代社会は成立しないし、僕ら物書きも何を信じていいかわからなくなる。だから僕は「声」はその場所と時間から離れても残ると信じている。だからこそ、僕は旅先で歩いて、食べる。それだけでいいと思っているのだ。そして、マタギとは阿仁という土地の、打当という土地の人々がその土地を歩いて、食べることの延長に生まれた文化ーーいや、土地とのかかわりかたなのだ。今回、僕たちはシカリの鈴木さんや、彼のもとに集まった若いマタギたちに連れられて山に入った。その体験は濃密で、それほど長い時間ではないけれど、圧倒されるような時間だった。しかし、究極的には彼らはただ自分たちの暮らす土地を歩いて、そしてそこで出会ったものを採取して(彼らは「授かる」と表現する)、そして食べているだけなのだ。つまり、その「歩いて、食べる」ことを深く追求する体験をしたからこそ、僕はその時間を圧倒的に濃密だと感じたのだと思う。
しかしおそらく、僕たちのこの取材による疑似体験には決定的なピースが欠けている。それはその土地の動植物を、食料として「採る」という行為だ。
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u-note(宇野常寛の個人的なノートブック)
宇野常寛がこっそりはじめたひとりマガジン。社会時評と文化批評、あと個人的に日々のことを綴ったエッセイを書いていきます。いま書いている本の草…
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