「オタク」的な感性の二つの政治性、「押井守的なもの」と「ゆうきまさみ的なもの」
さて、今日は久しぶりにアニメのこと……というかオタク的な感性について書いてみたい。
それは、ゆうきまさみ(新人類世代)と押井守(遅れてきた全共闘世代)のあいだにある「社会」や「政治」についての距離感の違い、についてのことだ。年長のアニメファンに分かりやすく言えば、劇場版「パトレイバー」の「1」と「2」の違いだ。これは僕と同世代のアニメファンの間でよく話題になるテーマで、たとえばニッポン放送の吉田尚記とは、何度このテーマで議論したか分からない。そして僕よりも数歳上の吉田は「1」(ゆうき)に、僕は「2」(押井)によりシンパシーを感じる(決して、互いを否定しているわけではない)のだ。
押井守は1989年の『機動警察パトレイバー The Movie』の公開時のインタビューで、こう述べていた。
要するに、ここで1951年生の押井は「遅れてきた全共闘世代」として、かつての学生反乱の「「壊れてしまえ」というヒステリックな表現」を総括し、「そうではない」別の方法で社会と対峙することを宣言しているのだ。
押井はしばしば「パトレイバー」の企画チームとして当時距離感を覚えながら接していた「おたく第一世代」ーーゆうきまさみや出渕裕ーーと自分たちの「違い」についても言及している。
この世代は「新人類」世代とも呼ばれる。しかしこの「新人類」的なものと「おたく」的なものは、同じユースカルチャーでもかなり傾向が異なっていた。前者は音楽やファッションを中心とした都市のストリートカルチャーであり、後者はマンガやアニメを中心とした全国区のメディアカルチャーだった。
今日における「サブカル」と「オタク」のルーツであるこの「新人類」と「おたく」は、その政治的なスタンスも大きく異なっていた。これらの文化が拡大した80年代は、60年代の学生反乱の時代を席巻した政治性が、「ダサい」ものとして軽蔑された時代だった。「新人類」たちは「政治の話なんてダサくてできない」と、文化的な「戯れ」に「逃走」することを選ぶ一方で、「おたく」たちは虚構の世界で現実の世界からは失われた正義や愛といった「恥ずかしい」主題を、「新人類」的な無意味な「戯れ」と並行してフラットに消費していた。
そしてここ(後者)には、全共闘的な「抵抗」の自己目的化もなければ、新人類的なファッションとしての「逃走」とも違う、政治的なものとの中距離が結果的に、そして半ば無自覚に生まれていたようにも思う。
そしてこの中距離=「もう少し別の抵抗の仕方」も、二つの道に別れていったと僕は考える。
それは『パトレイバー2』において結果的に反体制的なテロに感情移入し、特車二課の若い警官たちの青春群像を大きく後退させた押井守と、それに反発を示しあくまで彼ら個人の成熟の物語に留まり、法と秩序の枠内における自らの「仕事」を全うする範囲での社会改良を示すことでマンガ版『パトレイバー』を完結させたゆうきまさみの違いにも表れていると言えるだろう。
そして僕はより「2」に、つまり押井的なものにより共感を覚える。正確にはゆうきまさみ的なものをベースにものを考えながらも、それを補完するために押井守的なものを重視している。
それはなぜか?
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