トランプ復活問題から、日本の「冷笑」と「ネトウヨ」を考える
今日もドナルド・トランプの大統領復帰について考えたことを書いてみたい。あれから2日、案の定後出しジャンケン的に負けた方を叩いて自分を賢く見せたがる人たちがSNS上に溢れかえっているが、いちばん卑しいのはこういう輩なので、まずはその手の人をしっかり軽蔑することからはじめるしかないのだなあ、とつくづく思う。というか、こういった誰かを貶めることによる瞬間的な共同性への接続(承認の獲得)が圧倒的に「コスパが良く」なってしまったことこそが、現代のポピュリズムの……というかトランプ現象の本質であることはどれだけ強調しても足りないだろう。
さて、その上で今回考えてみたいのは、ちょっとした日米比較のようなものだ。
たとえば、今の日本の「ネトウヨ」と「冷笑系」の関係はなかなかに「ねじれ」ていて、こう言ってはなんだけれど「面白い」。
どういうことかというと「冷笑系」の人たちは、自分は「強い」「賢い」と思われたくて仕方がないために、後出しジャンケンで強い方に、勝った側に加担して「それ見たことか、オレは現実を理解しているからちゃんとこっち側に身を置くぜ」と弱い方、負けた方に石を投げてウットリする。本当に反吐が出る卑しさだけれど、今回問題にするのはそこじゃない。今回注目するのは、この種の「冷笑系」が「オレは現実を分かっているぜ」という幼稚なアピールのために「ネトウヨ」を「アリ」にするカードを切ることが多いことだ。まあ、中には単なる左翼嫌いのために、「敵の敵は味方」というか、普通に「ネトウヨ」にシンパシーを感じている「冷笑系」もいるだろうが、同じくらい「現実分かっているオレはネトウヨも一概に否定しない」というポジションを取ることで、イデオロギー的に不寛容なリベラルを叩きやすくする、(ついでにネトウヨ票もゲットする)という戦略を取っていることも珍しくない。
体感的な話で申し訳ないが、現役世代のホワイトカラーには、総人口の2%といわれる「ネトウヨ」よりも圧倒的に「冷笑」的なメンタリティのほうが支配的で、個人的には「ネトウヨ」問題とは「冷笑」文化の一部でしかないとすら思っている。要するに、プライドと実力の釣り合わない中高年男性のプライドを「コスパよく」満たしてくれる態度として「冷笑系」の「左派たたき」の文化が根強くある、というかSNSによって進化して定着した一方で、少なくとも2020年代における「ネトウヨ」「岩盤保守」は一定数の固定ファン以上に広がりを見せていない。そして、今日においては後者(ネトウヨ)そのものよりも、前者(冷笑)の左派たたきの道具として、「ネトウヨ」も「アリ」にするというカードが頻繁に切られる影響のほうが大きいだろう。「ああ、こういうのも(自分は支持しないけど)アリなんだ」とノンポリや中立的な人に思わせる効果のもたらすニヒリズムや露悪的な本音主義の浸透のほうが、「ネトウヨ」たちの決して規模の大きくない活動そのものよりも社会全体に対する影響が大きいはずだ。
対してアメリカだ。(無知蒙昧な愚民がトランプに騙された……的な単純化されたストーリーは「問題外」として)アメリカのトランプ支持層に、このようなグラデーションというか、二層構造に近い何かは存在するのだろうか。単純に民族構成などを考えると、より複雑な構造が存在すると考えたほうが良いだろう。
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u-note(宇野常寛の個人的なノートブック)
宇野常寛がこっそりはじめたひとりマガジン。社会時評と文化批評、あと個人的に日々のことを綴ったエッセイを書いていきます。いま書いている本の草…
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