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なぜ「意識の高い」地域おこし系プロジェクトは「空回り」しがちなのか

先日ある街おこし系の研究会のようなものに出席していたのだが、そこで行われた議論でちょっとぎょっとする話が出てきた。それは森林管理についての議論で、端的に言えば「鬱蒼とした森」の「外見」は「不愉快に思う人間が多い」という理由で「望ましくない」という内容だった。もちろん、これはそれなりに先行研究を踏まえた話で、少なくとも「鬱蒼とした森は不愉快に思う人が多い」というデータがあるので、景観のためにそういう森は手を入れていこう、という話のようだった。しかし、かと言ってそれだけで「鬱蒼とした森」を「望ましくない」と単純に否定してしまっていいのだろうか?

いいわけがない、というのが(当たり前のことだが)僕の結論だ。もちろん、僕だって現代の人新世において森は基本的に人間が手を入れないとダメになる、くらいのことは知っている。しかしさすがに「視覚的に開けていない森はダメ」みたいな単純化されすぎた議論は乱暴だと思うのだ。

たとえば芸術分野では「不快なもの」が価値をもたないという議論自体が退けられて久しい。教科書みたいなことを書いても仕方がないのだが、人類社会的には18世紀後半には「崇高」という概念が広まり、恐ろしいものや不安を与えるものが、人間を惹きつける心理が「前提」で考えられるようになっている(エドマンド・バークの『崇高の概念と美の概念』)。要するに文化の発展と多様化のためには恐ろしいものや、不快なものも必要なのだ。

というかそもそもの問題なのだけれど、ある分野でそれが正しいというコンセンサスがあることが他分野との総合性が要求される問題で無批判に通用できることの保証には、当然ならない。たとえばハンナ・アーレントの『エルサレムのアイヒマン』の評価は、比較的近い分野の歴史学と思想史研究との間でしばしば衝突するという(同書は思想史的には重要な問題提起をしていると見做されるが、歴史学的には事実関係のミスリードをもたらすと批判されがち……だとか)。

そして、この「鬱蒼とした森」の否定は明らかに文化分野との齟齬を生んでいる。少なくとも「鬱蒼とした森」を、マジョリティの感性では不快に感じるから否定するという発想は、まずマイノリティの切り捨てであり、それ以上に人間が何に惹かれるのかという内面の問題をあまりにも軽視しすぎている。

はっきり言って文化的に考えたとき「鬱蒼とした森」の魅力を否定することは歴史的に難しいだろう。大江健三郎も、村上春樹も、宮崎駿もすべて「鬱蒼とした森」に惹かれ、作品を生み出してきている。この歴史を軽視すべきではどう考えてもない。これを「みんな」が嫌がるから排除しようと言うなら、それはとても文化的に貧しい空間になるしかない。リゾートホテルがパンフレットに載せているような「絶景」ばかりがあっても人間が大して創発されないことくらい、少し想像すれば分かりそうなものだが……

鬱蒼とした森「も」あるべきだと、僕は強く主張する。と、いうかこれは「当たり前のこと」なのだけれど、近年の広義の地域おこし系運動の、意識の高い系の議論はウッカリするとすぐこういった単純な罠に陥ってしまう。今回も(自戒として)背筋がゾッとする思いがした。そもそも、それぞれの土地の、それぞれの森の特徴があり、それを活かした森林管理なり、ランドスケープ・デザインなりを近景、中景、遠景のそれぞれのレンズで考える……といったアプローチがあるべきで、その中には「鬱蒼とした森」が混じっていてもいいはずなのだけれど……

さて、僕がここで改めて考えてみたいのは、この種の東京のクリエイティブ・クラスによる「地方」や「自然」へのアプローチがなぜ、空回りしがちなのかという問題だ(まさに、自分たちの問題として)。

結論から述べれば、スローフード好きのクリエイティブ・クラスと地元の「意識高い系」の結託する「筋のいい開発」と、そこから取り残された昭和ー平成初期くらいで、時間の歩みが半ば止まっているその他の世界(テレビがいまだに支配的アメディアで、建て売り住宅からショッピングモールにマイカーで通う休日を多くの住民が過ごす)との決定的な「断絶」に問題の根源があると僕は思うのだ。

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僕はもはやFacebookやTwitterは意見を表明する場所としては相応しくないと考えています。日々考えていることを、半分だけ閉じたこうした場所で発信していけたらと思っています。

宇野常寛がこっそりはじめたひとりマガジン。社会時評と文化批評、あと個人的に日々のことを綴ったエッセイを書いていきます。いま書いている本の草…

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