#8 人と心と働く場
24節気72候、暦に合わせて記事を一本づつ出す予定が書きたいことが多すぎてハイペースな最近です。楽しい。
啓蟄の今日、三本目。
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「今どんな気持ちか」
「それはやりたくてやっているのか、やらされてやっているのか」
「職場でどんな自分でありたいか」
ある日の夜、突然、トマト(住人)の友達(以下、A)が、wakuraba HOUSEにやってきた。Aは営業マン。営業の仕事はやりがいがあって楽しいとのこと。
そんな彼と僕ら住人との炬燵でのやりとりが面白かった。
A「ご飯は当番制なんですか」
「いや、作りたい人が作るよ」
「お腹すいたな。いつもだったらご飯の時間だけど、今日は誰も作りたい人がいないみたいだ(笑)」
A「そんな感じなんですか。」
「そんな感じで家事は今のところまわってるね〜」
「今の社会だと、やりたくてやっているのかやりたくないけどやっているのかを周りが訊くことはあまりないかな?」
A「ないですね。忙しくてそんな暇もないですし」
「他にもっと優先されることがあるのかな?」
A「効率とかですかね、、、」
ふと、人の気持ちよりも大事なことって何なんだろうかという疑問が沸き起こった。
今の社会、感情は効率を阻む無駄なものとされている。
感情的な人という表現はしばしば褒め言葉というよりは、扱いが難しい厄介な人を指し、否定的なニュアンスを帯びる。
人の気持ちや思い、感じていることを話し合うことは生恥ずかしいし、何よりも時間の無駄、非効率だと信じられている。
そのように僕には見えるのだけれど、どうだろうか?
例えば、職場。
仮に効率も大事だとしても、人がいないと仕事ができないのだから、人も大事ということに変わりはないだろう。
どこもかしこも人手不足の世の中。
文字通り人の手(労働力)が足りないのだろうけど、手は胴にくっついていて、もれなく足も頭も心もついてくるのだから、手だけを借りることはできない。
つまり、労働力と言うものの、そこには機械ではなく心を持った人がいる。
自分と同じように心を持った人と人が集まっているのが職場である、という至極当たり前な事実は、どういうわけかそこまで関心が払われず、結果として誰の心模様にも注意が払われない職場環境が出来上がってしまっているところが多いようである。
どうして逆の職場環境、
つまり、
自分と同じように心を持った人が心地よく、ある空間である時間をともに過ごすことができるかに関心が払われた職場環境が当たり前にならないのだろうか。
様々な要素が考えられるだろうが、
人を「個」と「種」で分けて考えたらどうだろう、と時々思う。
個性は様々だから、基準を定めるのは難しい。必ずその範囲から逸脱し居場所を失ってしまう人が出てくる。
しかし、種としての人という視点から眺めてみると、例えば人という生き物に向いているかどうかという基準を考えることができる。
週5日連続で8時間働くことは、人という生き物に合っているのだろうか。機械的に休憩時間を定めること、上下関係を作ること、心を無視して作業のみを割り振ることは、人がより人らしくなることとどのような関係があるのだろうか。
本当の意味で人を大事にするには、どうしたらいいのか。
その問いに対するひとまずの応えは、
自分だったらどんな環境がいいか描いてみる、としておく。
人らしさ、
それはこの暮らしの大きなテーマの一つでもある。
その展開は、後日の記事でいつか。
※先週の日曜日は、8時間もカフェに籠もっていたので、珈琲代が赤字です。そもそも、そんな生活をここ数ヶ月してるので大赤字です。今後も膨らむ予定です😆
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