SNS、どうにも厄介な問題にぶち当たった今年
犯罪をやらかす子たちでもSNSを使うのだから、机上の議論をいつまでも続けているわけにはいかないじゃないか。その通りだ。その机上の議論とは、だいたい偉い地位にいる人たちのそれだろう。
そうなんだろうが、自分の意見に固執する人、あるいは組織の意見をそのまま踏襲する人がどれほどいるんだろうか。ドラマの登場人物としては、扱いやすさで最適だろうけど。
立派な研究室や事件器具を与えられて、そこに居場所を見つけ、没入する科学者。科学者や技術者とは言えないまでも、与えられたことどもに夢中になり、その「成果」を知ろうとする人が少ないことはないだろう。「成果」は一応整合性が整った形であらわれる。まぁ、説得力があるしね、と思う。
しかし、問題は、その論がエティカルなものかどうか、だとぼくは思う。
17世紀オランダのスピノーザ(1632~1677)の『エティカ』ではないが、こうあるべきだという演繹的高所(キリスト教)からの見方が、西欧型近代や現代のエティックを用意した。その流れで思うのだが、自分だけや組織だけに忠で満足する場合は、少なくともぼくにはエティカルではないし、日本語でいう倫理、道義などでもない。
しかし中には、自分はエティックを離れてはおらず、自分こそが正しい道を行っているんだという人は数々いる。科学者や技術者にとどまらない。一般人だってそうだろう。実はあるところから思考停止しているのだが、それに気が付かない、と思うのである。(その点、スピノーザも同じだと言えなくもないのだが、そこまで輪を広げなくともいいだろう。)
感性論と呼ばれるのが経験主義(経験論)にあるが、イギリスで発達したのはご存知の通り。一方、感性はごまかされるとして、数学や論理を検証の基本とした合理論、いわゆる「大陸理性論(大陸合理論)」が展開され、学校では近代思想の出発点とされる。それらの根底に、人間を論の中心にすえる近代ヒューマニズムがあることは当然としても、人間が意識される以上、エティックに反する、あるいは無視する議論があったわけではない。
けれども、社会が広がり(意識だけでなく商売の輪も)、便利さがぐんと増してくると、徐々に倫理的な世界が遠ざかった気がするのは、ぼくだけなのだろうか。これでもいいか、これでもいいかと、妥協を重ねるうち、エティカルが意識されなくなってきたように思う。
それで終わるわけではない。詰まるところ、大衆の低劣化に拍車をかけるような、視聴率や販売率ばかりに気を取られる人びと(CM担当者を含む)が多くなり、いつの間にか思考力まで失う。そして、現実はそのことに気が付く能力すら失くしてしまったように思うのである。
しかし、現在起きているSNSを手段とする「新しい」犯罪(闇バイトなど)傾向は、思考停止には違いないんだが、そう言って済むものではないようだ。それに、兵庫知事選挙を筆頭にする「選挙」選択のことも浮上してきた。
この点に触れないわけにはいかなくなった。次回、この辺の問題について一緒に考えようではありませんか。
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