人と哲学 感覚って哲学に関わるの?
ある時から、哲学者と呼ばれる人々は、知識って何だろうかと考えてきた。もっとも、最初は世界に向き合って、この世は何によって成り立っているか、突き詰めていくと何が元の元なんだろうと思って考えたのだが。
頭の中でああでもない、こうでもないと、理屈をこねるのが哲学の哲学たるゆえんではない。広大な景色、自然を前に、幾何や計算の力を借りたり、観察を徹底する。エピステーメーと言って、いわば科学と哲学は分かちがたい関係にあった。
そこで得られた様々な説、考え方は、やがて知識と見られるようになり、そのこと自体を考え始めるわけだが、西欧で言えば、キリスト教が支配的になってくると、複雑な宗教的問題の影となる。様々な論争、問題が、神学者を含めた専門家集団に取り扱われる歴史があり、大学の哲学史などで講義されているだろう。
近代を迎えると(近代って?という問いかけは素通りします)、新たな光を注ぐべく知識の問題が大きなテーマになってきた。
つまりキリスト教的にどう考えたらよいかというこだわりから、徐々に脱皮し、今では、宗教的問いとしてではなく、知識を独立した学問的問いにしていると、一応言えそうである。
例えば、一つの考え方として、「知」っていうのは経験あってのもので、形式的にまとまりを持つと「知」と言える。では「知」の本質というべきものは何であるか、どこで認められるのか、ということになる。
「知」には直感的な性質があって、アプリオリ(先天的)な性質を持っているという議論には、いやそうじゃないと反対する議論が出る。本質や実在や真理との関係はどうか、というテーマもある。
近頃では、「知」の社会的性格や歴史的性格(これらは重要な問い)、知覚や認識、あげくは身体との関係(これらも大切)とか論じるに事欠かない。根源知、暗黙知、技術知、実践知、身体知、学校知等々、知識に関する様々な術語というか用語が生み出され、近年はかなり凄いことになっているが・・。
それはそうとして、「知」を人間の活動として、特に人間の頭脳の活動として考え、人間の頭脳活動や身体活動のメカニズムとの強い関わりで理解しようとするなら、知識の成立過程を考えることになるだろう。しかしなかなか信じがたいことだが、知識とは何かと考えて来たわりには、この問いが乏しかった。
先ず、手とか耳、舌とか目とか鼻、僕たちの感覚器官(sense organ )を思い浮かべてみよう。アッ足もありますね(笑)。それらはみんな、身体の最先端に位置し、世界に向けて開放されている。これらの器官のおかげで、僕らは生命体として欠かすことのできない情報をもらう。だからものすごく大切な感覚器官だが、知識の問題としては長らく関心のソトだったようだ。低次元の問題として扱われるのが当たり前で、深刻に問われることはなかった。
それでは本当のところは分からないのではないか。つまり、感覚器官とまわりの世界(環境)が接触している。そこのところを忘れたら先に進みようがない。『物質と記憶』、『創造と進化』等の著作やエラン・ヴィタール (生命の飛躍)で有名な20世紀のベルクソン(仏、1859年~1941年)はそうとらえた。それまでの哲学の難しい議論からは出てきにくい問題に切り込みを入れたと言える。僕は彼の単細胞動物の観察と理論に接した時、学生時代に少しは読んだはずなのに、放り投げていたことに気づいた。気づくようになっていた。なぜならここに知識の根底的なものがあったと理解したからである。
モーリス・メルロ=ポンティ(仏、1908年~1961年)の出現にも、とても大きな意味があって、全く無視できない。しかし、涙を飲む。ここは急がずに話を続けよう。感覚器官のうちでも、特に注目して欲しいのは、皮膚感覚だ。皮膚は、僕らの生命にかかわる最重要の器官である。感じなくなったら、100度のお湯でもザブーンと平気で入っちゃうし、茨の上だって血まみれで歩いちゃう。もう大変で、生きていけない。舌だって皮膚だし、耳もそうだ。鼻の中も皮膚なしでは役に立たない。毒ガスの中を平気で歩いて、アッという間に天に召されたりする。
17世紀くらいのイギリスでは、経験論者たちが「快・不快」のことを論じていた。それまで、感情は低くて問うのは愚劣だと問題にしないのが普通であった。だから、感覚から話を始めようとするのは馬鹿げたことだった。キリスト教社会の長い習慣があったからと言えるのだが、取りあえずそれはいつの日か議論するとしても、感情抜きでは僕らはロボットと同じだろう。人生だの生き甲斐だのと言ってられない。
そこで考えると、そもそも感情は皮膚感覚抜きでは始まらないだろう。異論ある方から教えて欲しいと思うが、熱ければ熱いと感じ、臭ければクサイと感じるのである。脳があるから、これを意識としてとらえる。いやな気分とか嬉しい気分とか、冗談めいて恐縮だが、こういう気分の始まりは、案外「おしめ」の感覚から来ていたりする。
春のかぐわしい空気、水のせせらぎ、抜けるような青空、挙句は台風や木枯らし。例えば、いい季節にどこどこへ行って、広い空間に満ちている自然とその大気を知っているとか、人は生涯にたくさんのことを身に感じて生きている。皮膚経験が浅ければ感情も浅くなるのである。感情の問題には、即気持ちを動かす抗いがたい皮膚的な要素を視野に収めねばならない。
ここまで書くと、遠くギリシャの時代、有名なアリストテレースが後代に大きな影響を与えた三分類を確定したことを思いだす。しかし、ちょっと待ってと言わなければならないことがある。活きた哲学を問題にしたいからなのだ。何かを教えるにはパターン化すると分かったように思うし、事実そういうこともあるだろう。だが、ちょっと待ってなのだ。
三分類とは、テオーリア、プラクシース、ポイエーシスの三つ。観る、行う、作ることだが、こう分けてしまって話をすれば、哲学とは「観る」ことだということになる。しかし、このように行く前のこと、アリストテレースだって、それ以前の時代の自由で豊かな思考活動を経ているのだ。感官を意識してあれこれ考えたに違いないのである。
プラトーンの対話編を模索することは控えるけれども、とも角ナガーイ間、西欧の哲学は、感覚の問題を無視して「難しい」議論をしてきたということなのである。
(この続きをお楽しみしていただくにしても、今の問題、国際問題や政治問題に関わらざるを得なくなるかも知れない。直接どうのこうのと言うのではないけれど、現実を動かしている指導者たちに、哲学があるとは余り思えない、いや、むしろカネやチカラがすべてというような「哲学」に動かされていると言うべきかも知れない。そこですね、問題は。)