見出し画像

休日ということで建築以外のお話し。
今回は「走ること」がテーマ。

「走る」比喩でもなく、文字通り。
自分はランニングという本格的なものというより体を動かすという意味合いで日常的に走っている。
遡ると運動好きだった父親に連れられて、小学生ぐらいから一緒に走っていた記憶がある。ランニングブームが来る前の皇居にもよく走りに行ったものだ。そう考えるともう30年間ぐらい定期的に走っていることになる。
この期間に走らなかった期間も実はある。理由は怪我。

10年ぐらい前に本格的に走っていたシーズンがあり、ハーフマラソンやらフルマラソンの大会に出ていた。そこで走り込み過ぎて、足の裏を痛める「足底筋膜炎」となる。少し治ったら、走り、ぶり返し、最終的に膝まで痛め、走ることが出来なくなった。そこからは数年に渡り「泳ぐこと」がメインとなった。

時世がコロナ禍となり、屋内競技である水泳も禁止されいた時期もあった。そして再び、「走る」ことに戻ってきた。最初は怪我が心配であった。そこで、色々の本などを読み、足の着地の方法を変えるなどのフォームを見直した。いわゆるつま先から着地する「フォアフット走法」をイメージして走ることにしてみた。最初はふくらはぎの負担がすごく、5kmも走れなかった。しかし、繰り返すことによって筋力もつき、20km程度であれば問題なく走れるようになった。また足の裏、膝の怪我もぶり返さなくなった。

今考える走り方も影響あったのかなと思うが、準備・整理体操を大して行っていなかったということも怪我の一因であったと思う。20代のころなどそういうことは無意味だと思い行っていなかった。現在は走る前・後には必ずストレッチ等を行いようにしている。年齢と共に走り方や付き合い方も変化していくということも興味深い。

体を動かすことが日常となっているので、「何のために走る?」みたいな理由は明瞭にはないが、頭の整理をする時間にはなっている気がする。日々日常インプットとアウトプットを繰り返し、頭をスリープする機会があまりない。時間さえあれば何かしらの予定を入れ、予定がなくても本を読んだり、動画をみたりして、会話をしたり、頭を動かし続けてしまう。

貧乏性のような日常を送ってしまうと何もしない時間を作ることは難しい。走るという行為を行っているものの、頭を休ませたり、整理する時間に使うことによって、心を休ませている。

「泳ぐこと」も遠泳を行っていたので、まさに同じ。ただ水泳は決まったコースを複数人で泳ぐので多少のストレスがあり、走ることの方が頭の整理には自分には適していた。

私の周りにも健康面や体重面という理由で走ることを選択することが増えてきている。とてもいい事だと思うがなかなか続かないようだ。
走る習慣がない人はペースであったり、自分の体力を計ることは難しいのかもしれない。個人的にはゆっくりでもいいので、決まった時間を走ることを推奨したい。30分、45分、60分と走れるようになれば、5km、10kmと距離で走ってもいいと思う。そこまでいければ自分のペースは自ずから把握できていく。

走ることが日常になれば、私のように頭の整理や異なる利点も見つかっていくであろう。ただ走るだけで日常的な達成感も感じることもできるし、その後の食事もおいしくとれる。自分的には良いこと尽くしだと思っている。

どんなことであれ「体を動かすこと」は心身に良い影響を与える。精神的にきつい事、嫌な事、どうにもならない事など、自分では消化しきれない事が日常的にある。それらストレスを解消できないまでも、「体を動かすこと」によって精神的負担が緩和されたり、距離がとれる。

私はメンタル的に追い込まれているときこそ、走りに行く。そこで他のことをしても、その事象に囚われ結局何もできないからだ。走ることによって調和をとる。

どんなことでもいいかと思うが、「自分に適した体を動かすこと」を日常に据えると心の負担が少し軽くなるのでは、というお話。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?