統合失調と小説と刺青と【エッセイ】
ぼくは周囲にも隠していないが、統合失調症をもつ小説家であり、入れ墨をいれている。
まず、ぼくは妄想型統合失調症である。今症状は落ち着いているが、一時期はすべての思考が他人に漏れていると思っていた。24時間。365日。LINEのパスワードから銀行の暗証番号から、ぼくがアメリカに対している感情まですべて他人は知っていて、読みとられていて、ぼくをなにかに陥れようとしているのだと考えていた。それをしたところで得をする人間がいないにも関わらず。つまり他人がすべて「敵」であった。
ぼくの脳が暴走し始めるのにはきっかけがあった。2011年3月11日のあの日だ。ぼくは当時京都のすこしアナーキーな大学で文章や音楽をアプローチとして、沖縄や普天間(地元なので)が抱える問題を提起する活動をしていた。そこであの未曽有のパニックに巻き込まれることになる。
自然信仰だったぼくは、あの事故が起きるまで原発というものに特別感情を抱いていなかったが、その思考が「脱原発」に切り替わるまでそう時間はかからなかった。それからはデモやフリーペーパーで、自分の持っているものをフル稼働させて活動にのめりこんでいった。
そんな中、友人がヤクでつかまった。
ぼくは大学側に呼び出され、事情聴取的なことまで受けさせられた。このときぼくは、ぼく、という存在がどういうものなのか大学側に筒抜けであり、同時に公安にまで目をつけられているという妄想にとりつかれた。その当時ぼくはまだ20歳。物事の本質も見極められない若輩者であった。そしてそんな折に、デモ、学祭、ライブイベントが重なっていた。ぼくは生粋のリーダーだ、自分でひろげた風呂敷、ケツを拭くのは自分だ。ぼくは精神的に追い詰められていた。しかし、ぼくのことを信じてついてきてくれた仲間たちを、裏切りたくない。気が付くと体重は49キロしかなかった。
ぼくは、すべてに勘繰り、すべてのつながりを捨て、沖縄に逃げた。
今思えば、その勘繰りはすべて統合失調症の症状だった。そして思う。「沖縄」という逃げ場所があってよかったと。もしかしたら、逃げる場所がなければ最悪のケースに陥っていたかもしれない。
そしてぼくは、遺書のように小説を書きはじめた。入れ墨をいれたのもこのころだ。5年間まったくのひきこもりではなかったが、働きもせずに、肝臓を壊すまで毎日酒をあおった。
そのとき書いていた小説が、デビュー作「風の棲む丘」だ。何度も書き直し賞に応募したが、反戦を謳う非国民の小説は受け入れがたいものだっただろう。どんな賞にも引っかかることはなかった。自失呆然としたぼくは、最後の手段と思って行った、とある出版社と出会い、出版のチャンスをいただき、小説家となった。27歳の秋だった。
勘違いも甚だしいが、ぼくは小説さえ出版できたら、何もかもが好転すると考えていた。しかし、夢はつかめば、ただの現実だった。話題作どころか売れる気配なく、なにも変わらなかった。残されたのはひとを呪えるほどになった。“書く”というちからだけ。
ただ、ぼくが幸運だったのは姉ふたりの子どもたちと多くの時間を過ごせたことだ。子どもたちのエネルギーはすごい。最初は絡んでくるチビたちが小うるさかったが、気が付いたら怒る元気がでてきて、ぼくの喜怒哀楽は再び精製された。
それから、すこしづつ酒もやめ、病気ともうまく付き合えるようになり活動の幅が広がったぼくは、いろいろなことに挑戦した。結果はどうであれ、経験は知恵と衝動の深い源泉だ。
ぼくの旅はつづく。強い覚悟と連れが欲しくて、30になる前に入れ墨を増やした。これはあまりおすすめはしない。入れ墨は自分の中に別の生き物を飼う行為だ。これは大きくその宿主の運命を変える。いきついて、どうしても変化が必要なら、いれてみるのもありだと思う。
運よく、本は3冊出した。(まだ売れ残っているが)。子どもたちの成長を見つつ、いつもの場所で文章を書く。笑い声が聞こえる。ぼくも笑顔になる。
ぼくは、この道で生きていく。
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