これから死にゆく男。後悔で終わる人生に、後悔なし。
私は今、病院のベッドの上に寝ている。私はもうすぐ死ぬ。妻と6才の息子が、ベッドの横で、私を見守っている。
妻は、とても悲しそうな、何か言いたそうで、喉につっかえているような、少し苦しげな表情で、私を見ている。
息子は、子どもらしい、キラキラと光輝いている瞳。その瞳の輝きとは対照的に、表情はとても心配そうで、寂しげだ。
私は、もうすぐ死ぬ。
ずっと家族をかえりみず、仕事に没頭した人生だった。
家に帰っても、妻と息子と話をすることもなかった。
身体も大事にしなかった。
いつも、仕事のことを考えながら生きていた。
そんなある日、私は病気になり、緊急入院した。
重くて、大きな、暗闇
医師が余命を告げた。その瞬間、ズーーーーーンと、重く、何かが身体に覆いかぶさってきたかのように、感じた。
しばし、呆然とした。
私は、何でも思うように、人生をコントロールできる人間だと、思っていた。
だけど、違った。
自分の命なんて、コントロールできない。私は、豆粒ほどに、ちっぽけな存在だということを、一瞬で思い知らされた。
なんておこがましく、愚かで、恥ずかしいことだったか。
一気に、私の心から、何かが削ぎ落とされたかのようだった。
ナイフで刺された傷口を、小さなバンソーコーで、隠した気になっていた。当たり前に、ベリッと剥がされて、傷口が露わになったかのようだった。
今、私にのしかかっているのは、目には見えない、重くて、大きな暗闇だ。
それは、私のあらわになった傷口から、どんどん侵入し、身体の隅々まで、侵食していった。
いや、もうすでに、侵食されていたのだ。
本当は、私は気づいていた。
仕事以外のこと、とりわけ、家族のこと、自分のことに意識を向けると、私は、ズシッと身体が重くなる。一瞬で、重い、大きな暗闇に包み込まれるような、そんな感覚があった。
ずっと、気づかないふりをして生きてきた。
この暗闇に、気づくのが怖かった。この暗闇が何なのか、分からない。分かってしまうのも、怖かったのだ。
この暗闇に気づきたくないがために、私はすべてを投げ売って、仕事に没頭した。
本当は、この暗闇に、気づいていた。
気づかないふりは、今はできない。
気づかないふりをすることに、膨大なエネルギーを注いでいたからだ。
今は、そんな気力は、どこにも、ない。
気づいた日
私は、もうすぐ死ぬ。
今は分かる。あの、重くて、大きな暗闇が何なのか。
子供の頃からある、この感覚。
死を目前にしても、言いたくないことがある。
今さら、、、
ここまできても、認めたくないことがあること。
自分でも、驚く。
人生をかけて、気づかないふりをしてきたことだ。
小さな私。その、私の言い分だ。
最後くらい、言わせてあげよう。
私は、ただ、母に認めて欲しかった。
ただ、母に、愛して欲しかった。
ただ、それだけだった。
ただ、それだけのこと。
死ぬ、今になって、ようやく、認めることができる。
私は、小さな存在だ。
今もそうだ。ずっと、そうだった。
母に愛されていない、ということを、感じるに耐えることができなかった。
私は、誰からも愛されない、必要とされない存在。
寂しさ、孤独感、惨めさ、悲しさ、怒り、憤り、恐れ、ありとあらゆる感情たち。
私は、いつの頃からか、これらの感情たちを、感じないようにする、クセがついていた。
覆い隠すのに、どれだけ、重くて、大きな暗闇が必要なことだったか。
そして、成長とともに、いつしか、喜び、楽しさまでもが、重くて、大きな暗闇に吸収されてしまった。
死ぬ今になって、分かった。
暗闇だと思っていたもの。すべてが、愛すべき、愛おしい自分の一部だった。
何一つ、怖がることなどなかった。
人生をかけて、この暗闇から、目を背けてきた私の人生を、今は後悔している。
だけど、いいんだ。
この後悔も、愛おしい自分の一部なんだということが、今は分かる。
愛おしい。愛おしい。愛おしい。
この、豆粒ほどに、ちっぽけな自分自身が、愛おしい。
ずっと、抑えていたものが、溢れ出しているかのようだ。
息子が、私を見ている。
この子は、全部、分かっていた。
私が気づくのを、ずっと待っていた。
死んだら、この頬を、頭を撫でてあげることができない。
寂しい。寂しい。寂しい。
今まで、何回撫でてあげたというんだろう。
妻が泣いている。
本当に、ごめん。
私は、本当に勝手な人間だったね。
こんな私と、一緒になってくれて、ありがとう。
息子を生んでくれて、ありがとう。
空を飛ぶ、鳥たち。
日々、すれ違う、見知らぬ人々。
テレビで見たことのある、見知らぬ土地の戦争。
今、死を間際に、後悔を感じている、この私。
すべてが、今は、優しくて、愛おしい。
すべてが、完璧で、かけがいのない存在だ。
みんな、ありがとう。
静かに、ある男の人生が、終わった。