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旅は直観に導かれる

旅は直観だ。
ある時期、私は自転車の旅人を増やすにはどうしたらいいか、ずっと考え続けていた。
自転車の旅の魅力を伝えるために、何冊かの本を書いた。
本を一冊書いたぐらいでは到底回収できないくらいの取材費をつぎ込んで、あちこちを走り、当時は、まだフィルム代と現像代のかかるリバーサルで写真を撮りまくった。そういうことをまあ10年くらいは続けた。

私の本を読んでくれて、自転車の旅をしてみたくなった人も、それなりにはいると思う。
やったことが無駄だったとは思ってはいない。が、それからまたいくらかの歳月が過ぎ去った今、別の見方をすることが多い。
確かに、旅心のある人は、ガイドブックや紀行文や自転車旅の解説本を手にとって、本当に行く気になるのかもしれない。

しかしそれは、そもそも最初からその人の中に「旅」に反応する要素があるからなのである。関心があるから、そういう情報や本を引き寄せるのだ。関心がない人の前でいくら旅の魅力を説いても、首を縦に振ることはまずない。
人間のものの考え方や、思考慣習を変えさせることは、ほとんど不可能に近い。なるほど「目から鱗」のように、ヴェールが剥がれることはある。しかしそれは、「視座」ではなくて「視力」の問題である。
「視力」は喩えればメガネのようなものでも補完し得る。「視座」はそうはいかない。今いる快適なところから別のところへ移らなければならないからだ。

われわれは何か進路を選んだり、欲しいものを選択するときに、実際には理性や悟性ではなく直観で決めることが多いのだ。
ランドナーのような様式美の自転車に魅せられる人は、それを見ただけでその美のあり方を理解し、共感できる。そこに説明の能書きは必要ではない。そして、どこが美しいのかわからない人に、いくらフランスのアルチザンの名前や彼らの手になる名車の特質を説いても無駄である。
そのような反応の差異は趣味の違いであることは確かだが、それ以上にもっとずっと奥深いところから生じているように思われる。

本質が本質を引き寄せる。
都市よりも自然に近しいものを感じる人は、そこへ行こうとする。
旅に心をときめかせる人は、旅の中に存在の最も面白い部分を見ている。
人なり、作品なり、事物なり、何かを見上げて素晴らしいと思える人は、その一部を実はすでに保有しているのだ。

この星の上で生きることも旅だから、旅をしているうちに見えてくるものはけっこうある。
人は自分の思考や志向が作り出したものの中に生きている。
スピリチュアルな文脈でもよくそういう話が出てきて、いわゆる引き寄せの法則が引き合いに出される。それは容易に倫理的な観点や、いかに生きるべきかといったような精神論に結びつくが、私の個人的な見方では、それは徳性がどうのこうのといった問題であるよりは、単に技術的な問題だとも思う。
良い音を出したければ、良い楽器を選んで、適切な練習をしなさい、ということのように。

同様に、旅で何かを得ようと思うなら、それは量的な問題ではなく質的な課題なのであって、「視力」ではなく「視座」であろうと考える。
少なからざる人が、一生を通じて、能力の向上を求めている。昨日できなかったことを今日できるようになることが進歩と考える。そういう風になるのは、近代の教育システムがそういう風に考えろと暗黙のうちに言っているからかもしれない。

「視力」の獲得よりも、「視座」の転換のほうが、痛みを伴う可能性がずっと高いだろう。
私はさして多くの人間を知っているとは思わないが、「旅」をしてきた人の表情には、直観として感じるものはある。
マルグリット・デュラスの『愛人(ラマン)』の冒頭には、そのような人間の顔についての優れた描写がある。

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