彼女はオートバイ(短編小説)
彼女の名前を忘れかけたことがある。もう何年も前のことで、思い出すまでしばらくかかった。暗い水の中で何かを探しているような感覚だった。ほどなくして彼女のフルネームを思い出すと、水の濁りはとれた。そして何かが浮かび上がってきた。それは、かたちも姿もない、ある種のエネルギーのようなもので、悲しみとも後悔ともつかない感情で僕の胸を突いた。
僕はしばらくその感情に揺さぶられ、気が付くと涙を流していた。不思議な涙だった。何かが悲しいとか悔しいとか言うよりも、目の前にある十数年の時間の経過と、それがもたらした著しい空白に呆然として流れた涙のようでもあった。僕はもう四十歳になるところで、三つ年下の連れ合いと一緒に暮らしていた。
名前を忘れかけた彼女の記憶は、十数年前と変わることはなかった。追憶の中で人は齢をとることはない。森の中に立っている木の、梢の葉の一枚一枚が鮮明なように、彼女の輪郭は僕にとって鮮やかだった。でもいったいどうして、僕は彼女の名前を忘れそうになっていたんだろう? 僕は自分にそう問いかけてみたが、答えはもちろん返ってきはしなかった。
僕はいま、自分の中古マンションの一室の仕事場で彼女のことを思い出し、恋人になったかもしれないひとのことを考えようとしている。もし、彼女の名前をあのときすんなりと思い出すことができていたなら、そういうことにはならなかったかもしれない。
人の名前の記憶を失うということがどういうことなのか、僕には分かっていなかったのだ。今はもう忘れることがないのは分かっている。けれどあのとき、僕の無意識は明らかに彼女の名前を消し去ろうとしていたように思える。
彼女の記憶が更新されることはなかった。今はもう彼女がどこに住んでどうしているかも分からない。僕が知っている彼女は、過去の一部分だけの彼女なのだ。だからそのことを思い出してみるほかない。
彼女の名前は、江口久子だった。やや古風な響きの名前に反して、彼女の容姿はむしろ現代的で、人にもよるが、美人と言っていいくらいのプレゼンスがあったと思う。嫌味はなかったものの、立ち居振る舞いにもけっこう派手なところがあった。彼女がそんな風に見えた理由のひとつは、彼女の背が高かったからで、身長は一七五センチくらいあった。身長一六五センチの僕に比べて、完全にひと回り上背だった。
彼女は、僕が大学を卒業してから二年間だけ勤めた広告プロダクションでグラフィック・デザイナーをしていた。一級上の先輩社員だった。新人コピーライターとして部署に配属された僕は、江口さんとコンビを組んで仕事をするようになった。
特に最初の頃、僕のコピーはぎこちなかったが、江口さんが何度か良いアドバイスをしてくれて、何とか課題をクリアできるようになり、そのうちに営業担当の男性の先輩たちの中には、僕らのチームに優先的に仕事を割り振ってくれる人もでてきた。
「私たち、けっこういいチームかもね」とあるとき江口さんは僕に言った。僕はうなずいて言った。
「先輩がうまくやってくれてるからですよ。僕はまだまだ。足を引っ張らないようにがんばります」
すると江口さんはこう答えた。
「私ね、本当はコピーライターをやりたかったのよ。もちろん専門はグラフィック・デザインなんだけど、学生のときからコピーライターっていいなって思っていたのよ」
「そうなんですか」
「そうよ。だって広告の核心を作っているのはどちらかと言えば、コピーライターなんだから。グラフィック・デザインだって重要だけれど、方向性を決めるのはコピーね。だから私、ちょっと山本君が羨ましい面もあるわけ」
「本当ですか。ちょっと緊張しますね」
「山本君のコピー、なかなかいいわよ。もっともっと伸びるとは思うけどね」と江口さんはウインクしながら言った。僕はちょっとどぎまぎしてしまい、うまく返せなかったが、なんとかこう言うことができた。
「先輩のデザインに比べたら、全然まだまだです。これからもよろしくお願いします」
「ねえ、山本君」と江口さんは言った。
「今度、広告賞の募集があったら二人で応募してみない?」
「え」
「地元の新聞社の主催でやってるものなの。がんばれば案外いい線にいくかもよ」
「いいですよ。僕で良かったら、先輩と一緒に挑戦したいです」
「よし。きまり。じゃあチャンスを待ちましょう」
けれど、その機会が僕らに訪れることはなかった。江口さんはその翌年の春、広告プロダクションを辞めてしまったからだ。
江口さんが会社を辞めた理由について、職場ではいろいろと取り沙汰されていたが、いちばん大きく言われていたのは失恋からじゃないかということだった。江口さんは彼女より少し年上の本田さんという背の高いデザイナーが意中の人で、本田さんの影響でオートバイに乗るようになり、確かにそれは僕の眼から見てもそういう感じが濃厚だった。
けれど本田さんは妻帯者だった。江口さんだってそんなことは百も承知だから、はじめから線を引いて彼のことを一種の憧れの対象にとどめておいたはずなのだが、どこかの時点でそれが狂ってしまったのかもしれなかった。
本田さんは男性の僕から見ても感じの良い人で、車名は知らないけれど、当時、ヘッドライトの大きなヤマハのオートバイに乗っていた。あの頃はオートバイブームで免許を取りに行く人が多く、三十人ほどの社員がいたわれわれの広告プロダクションでも、半分近くのスタッフがオートバイに乗っていた。
僕はオートバイの免許は持っていなかったし、取りに行く気持ちもなかった。オートバイが嫌いなわけではなかったけれど、どうしても乗りたいと思うほどの情熱も湧いてはこなかった。僕にとっての二輪の大切な乗り物はランドナーと呼ばれる旅行用自転車だったからだ。
会社でオートバイに乗る連中は、よく連れだってツーリングに出掛けていた。その中には当然のように、本田さんと江口さんの姿もあった。二人とも背が高かったので、グループの中でよく目立った。そして似合いのカップルのようにも見えた。その頃の江口さんはホンダのシルクロードと呼ばれるオートバイに乗っていた。本田さんの奥さんはオートバイには乗らないので、グループの集まりに顔を出すこともなかった。
江口さんが広告プロダクションを辞めてしまったあとでは、社内のオートバイ・グループもなんだか精彩を欠くようになり、そのうちグループは自然消滅するような感じになった。
そしてその頃には僕も会社を辞した。江口さんがいなくなったあとでコンビを組んだ男性のデザイナーとはちょっと感覚が違っていて、うまくいかなかった。それでも一年ぐらいは何とか互いに譲歩を繰り返しながら仕事を続けていたが、そのうちに我慢ができなくなって僕は辞表を書いた。
僕は別の広告代理店の求人に応募して、それにパスしたので、そこに籍を置くようになった。その三年後にそこも辞めて、フリーになった。
当然のことながら、フリーになって収入は安定しなくなったので、仕事場兼住居はそれまでの賃貸マンションの一室から、旧い鉄筋コンクリートのアパートをリフォームした2DKに引っ越した。
そうしてその頃に、偶然、江口さんと再会したのだ。
あれはたぶん、桜が散ったあとの春だったと思う。今でははっきりとしたことは何も分からないけれど、そんな気がして仕方がないのだ。桜が咲いている季節だったらそのことを記憶しているだろうし、オートバイ用の革ツナギを江口さんが着ていたことから、真夏とかではなかったことは確かだった。なんとはなしにけだるい空気が辺りに満ちていたようなことはよく覚えている。
その日、僕は桜橋というところにあるカフェ、「ラ・ニーニャ」でフレンチローストのコーヒーを飲んでいた。「ラ・ニーニャ」は僕の仕事場兼住居から車で七分ほどの距離にあり、外での打ち合わせの帰りなど、車で立ち寄ることも少なくなかったけれど、天気の良いときは自転車で行くことが多かった。
当時僕はランドナーと呼ばれる旅行用自転車のフレームをオーダーして、それを自分で組み上げたばかりだった。自慢の一台でとても大切にしていたから、ずいぶんとていねいに扱っていたものだった。「ラ・ニーニャ」には、通りからの眼が届かない半地下の駐車場もあり、自転車をチェーン錠でしばりつけるための鉄の柱も備わっていたので、安心して自転車に鍵をかけることができた。
夕方の時間帯だった。僕はカウンターに座って店のマスターと世間話をしていた。「ラ・ニーニャ」はちょっと隠れ家的な雰囲気のあるカフェで、店の入口の前に立っても中がカフェであるようには見えない。旧い家具などを入口の左右の奥に並べていたりするので、アンティークショップのように見える。だから、初めての客が一人で入ってくることは少ない。男性客よりもむしろ女性客のほうに、開拓精神のある人が多いよ、とマスターは言っていた。好奇心は女性のほうが強いらしい。
そんな話をしていたちょうどそのときに、入口のほうからオートバイの低い排気音が響いてきた。僕はオートバイには詳しくないが、それが比較的排気量の大きな単気筒のものであることぐらいは分かった。
僕はマッチョな筋肉質の中年男性が、店のドアを開けて入ってくるのを想像した。が、現れたのは黒い革ツナギを着たスリムで背の高い女性のようだった。じろじろと待ち構えたかのようにカウンターから眺めるのは失礼だから、横目で見やっていたのだ。
彼女はカウンターから少し離れたところにあるテーブル席に独りで座った。オーダーを取りに行ったマスターに「ホットをお願いします」と言った。その声で僕は事態を了解し、弾かれたように振り向いて彼女を見た。
「江口さん、江口さんじゃないですか」
彼女の髪は以前よりも短かった。胸の辺りまであったロングヘアーは、今はボブになっていたが、くっきりとした目鼻立ちは以前のままだった。
江口さんは一瞬驚いた表情になったけれど、すぐに昔よく見せてくれた笑顔になった。
「山本君じゃないの。どうして? あ、こちら、行きつけのお店なの?」
「奇遇ですね。そうなんです。でもよくこの店が分かりましたね」
「知り合いから聞いたの。桜橋の駅の近くにコーヒーの美味しい店があるって」
それから彼女はカウンターの僕の隣の席に移って、二人で小一時間ほど世間話をした。主に僕が自分の近況を話した。江口さんがプロダクションを辞めて一年後ぐらいに僕も辞めたこと、ここから自転車でも遠くないところに仕事場兼住居のアパートを借りて、一人暮らししていること、フリーになってからもときどき、二番目に務めた代理店から仕事をもらっていること、等々。
「彼女は?」と江口さんは微笑を浮かべながら訊いてきた。
「いませんよ。女性と付き合っていたのはもうずいぶん前のことなんです。同じ質問をしてもいいですか?」
それには江口さんは答えずに、静かにまた笑いを浮かべただけだった。
そこからどうして江口さんが僕の仕事場兼住居を訪ねてくることになったのか、今ではもうはっきりとは思い出せない。しばらく世間話をしたあとで、僕のほうからそう切り出したのか、彼女のほうからそういう提案をしたのか、思い出すことができないのだ。でもそれは何かひどく互いに緊張して取り決めたようなことではなかったように思う。僕らは先輩と後輩という間柄で、彼女のほうが年上だったから、何か自然にそういう流れになったのかもしれない。
そういうわけで、僕と江口さんは二人で「ラ・ニーニャ」のカウンターを離れた。話を聞いていたマスターは僕に向かって片まゆを上げて見せた。
僕が自転車の鍵を外し、半地下の駐車場から引き出してくるあいだ、江口さんはオートバイのところで待っていてくれた。僕が自転車を引いて現れると、ジェットタイプのヘルメットを被り、ストラップを締めた。
「SR400じゃないですか」それは僕が判別できる数少ないオートバイのひとつだった。
「あたり、と言いたいところだけど、ちょっと違うの」
「SR500?」
「そう」
「限定解除したんですね」
「半年前くらいにね。ね、山本君の自転車もとっても素敵よ。美しいわね。そういう自転車も最近は見なくなったわね」
僕はアパートまでの道の概略を彼女に説明し、県道だと自転車との速度差が大きくなってかえって危ないから、旧道のほうを行きますよ、と言った。僕のあとをついてきてください、とつけ加えた。
「ラジャー」と江口さんは言い、エンジンのデコンプを操作してから、おもむろにキックをくれた。一発で、ヤマハSR500のエンジンは息を吹き返した。見ていて惚れ惚れするようなパフォーマンスだった。
僕らは出発した。幹線道を二百メートルほど東進したところで右折して旧道に入り、僕は二十五キロくらいのスピードでランドナーを走らせ、江口さんはそのあとをついてきた。もう日は暮れていたので、SR500のヘッドライトが僕の進路も照らしてくれた。旧道はまっすぐ僕のアパートの裏手に続いており、十五分もしないうちに僕らは到着した。アパートの敷地に入るときに、江口さんはエンジンを切って惰性で侵入してくれた。二輪駐車場に彼女のSR500は止められた。
僕は自転車をアパートの中に入れなければならなかったので、江口さんに待ってもらって、二階の部屋まで自転車を担ぎ上げた。それからようやく江口さんを招き入れることができた。
僕は心臓が高鳴るような気がした。そして実際、そうなっていたと思う。よく考えてみたら、この部屋に女性を入れるのは初めてだったし、しかもその人は、こんな人が自分の恋人だったらとても素晴らしいだろうと思えるような人なのだ。数日前に少し部屋の片づけをしておいて良かったと思った。
江口さんは狭い玄関でていねいにブーツを脱ぎ、ヘルメットを靴箱の上に置いて言った。
「一人暮らしの男性の部屋におじゃまするなんて、すごく久しぶりよ」
「この部屋に入ってくれた女性は、江口さんが初めてです」
「本当? だとしたら光栄だわね」と彼女は言って、少し笑った。それからキッチンに置いてあるテーブルとその上のワードプロセッサを見て尋ねた。
「ここで仕事をしているの?」
「ええ。食事をするときも一人だし、テーブルが大きいほうが資料とかも並べやすいので」
「料理はするのかしら?」
「簡単なものだけですよ。パスタを茹でるとか、野菜炒めを作るとか、そんなものです。でもあまりやりません。一人で食事をするのはちょっとわびしいですからね」
「きょうはそうじゃないでしょ」と悪戯っぽく笑った江口さんは、こんな風に続けた。
「ね、あとでどこか近くのお店に何か食べに行かない? 私、少しお腹空いてきちゃったの」
「いいですね。でも、良かったら僕が何か作りますよ。ご飯はパックを湯煎したものになりますけど。そうだな、カレー風味のオムレツなんてどうですか」
「それ、凄くいいわね。本当にお願いしちゃっていいのかしら」
「もちろん。それじゃ支度しますから、隣の部屋で待っててください。あ、なんか、かけましょうか。この部屋、鉄筋コンクリートで角部屋ですから音がほとんど漏れないんです。聞きたいCDとかありますか?」
僕は隣の部屋に江口さんを案内し、壁一面に並べた本棚とその一部を占めている五百枚ほどのCDを披露した。オーディオシステムは中央にあって、左右の本棚にブックシェルフ型のヤマハのモニタースピーカーをセットしていた。マニアを唸らせるような高い機材ではないけれど、部屋の響きが悪くないので、そこそこの音では鳴る。
「じゃあこれ、かけてもらってもいい?」江口さんがCDの棚から持ってきた一枚は、カーペンターズの「ソング・フォー・ユー」だった。
僕はアンプのスイッチを入れ、CDプレーヤーのトレイの上に「ソング・フォー・ユー」を置いた。トレイが引っ込み、データの読み取りが終わったところでアンプのボリュームを捻り、音が出るのを待った。
カレン・カーペンターが歌い始めるとすぐ、江口さんは言った。
「わ。凄い。カレンがそこにいるみたい」
僕は江口さんがオーディオのある六畳間に腰を下ろして「ソング・フォー・ユー」を聴き入っているあいだに、冷蔵庫から材料を取り出して下ごしらえを始めた。
「私も手伝うわよ」
「いや、カレンの声を聴いていてください。料理は僕一人で充分ですから」
僕はまず卵を4個ほど取り出してぬるま湯につけ、ベーコンを刻み、それからタマネギをみじん切りにした。パックご飯を湯煎であたためる準備もしておいた。次いでベーコンをカリカリになるまで炒め、そこにタマネギを入れた。その粗熱を取るまでさましておいてから、卵を割り入れ、カレー粉をスプーンで入れてほどほどにかきまぜた。
それから中華鍋にオリーブオイルを少し入れてからバターを溶かし、そこで一気に卵と具を流し込んだ。
出来上がりは悪くなかった。僕は六畳間に折り畳みのローテーブルを広げ、そこにオムレツの皿と、チーズとフライドオニオンを添えたパックご飯の皿を並べた。
「さあどうぞ。食べましょう」と僕は言って、割りばしを割った。江口さんはとても品良くオムレツを口にして、それから言った。
「凄く美味しいわね。山本君は料理の才能もあるのね」
「このレシピは料理人をやっていた友達の受け売りなんです。真似しただけですよ」
「でもちゃんと自分のものにしているんじゃないの」と江口さんは言った。
「もうちょっと野菜があればサラダも作れたんです」
「これで満足よ。本当に美味しい。山本君の奥さんになる人は幸せね」
「そんな日が来るのかどうか、僕には自信がないですね」
「みんな、そういう風に思うものよ」
「江口さんもそうなんですか」
僕がそう言うと、彼女はまた少し微笑を浮かべて、言った。
「山本君の想像にまかせるわ」
カレーオムレツの食事が終わったところで、僕はコーヒーをサーバーに淹れた。五杯分くらいある。江口さんはコーヒー好きだったし、たくさん入れたほうが僕の腕でも美味しく入る。沸騰したお湯をコーヒーケトルに移してから、ペーパーフィルターに五杯分のMJBコーヒーを入れて、僕は慎重にお湯を注いでいった。
その場で豆から挽いたコーヒーではないけれど、まずますの出来だったとは思う。
「『ラ・ニーニャ』のコーヒーみたいなわけにはいかないですけど、たっぷり淹れましたから、どうぞ」と僕は江口さんにマグカップを勧めた。
「いい香り。うん、合格よ」と彼女はにっこり笑って言った。
「光栄です」
CDは2枚目になっていた。今度は僕が選んだものをかけた。「J・S・バッハ アリア集」で、バッハのカンタータや受難曲のアリアが取り上げられている。
「クラシックは詳しくないけど、こういう声楽曲もいいものね。山本君にこういう趣味があったなんて知らなかったわ」
「そんなに詳しくはないですよ。ただバッハが好きなんです」
「私はほんの少ししか知らないけど、『G線上のアリア』が好き。私の高校のときの卒業式で、オーケストラ部から編成された弦楽合奏団が演奏したの」
「それは素敵ですね。僕も聴いてみたかった。良い選曲のセンスだと思います」
そして僕は想像した。高校生だった江口さんが母校の卒業式に出席し、目をうるませている姿を想像した。江口さんは僕の想像の中では長い髪だった。弦楽合奏団はステージと卒業生たちのあいだで演奏していた。卒業生一人一人が卒業証書を受け取るあいだ、エンドレスで「G線上のアリア」を演奏していた。それは素晴らしい映像だった。やがて江口さんの番が回ってきて、彼女はすらっとした美しい背丈で校長の前に立ち、静かに証書を受け取った。感動的なシーンだった。
だが次に僕の口から出た言葉は、そういう映像とは関係のないものだった。
「どうしてプロダクションを辞めたんですか。僕は江口さんと仕事をさせてもらって、とても楽しかったです」
江口さんは驚いた風でもなく、ただちょっとだけ表情を曇らせて、言った。
「ありがとう」と彼女は言った。
「でも、辛くなったのよ」
「何に?」
「いろいろあってね」と彼女は諦めたように言った。
「本田さんのことですか」
「そうよ」と彼女ははっきりと言った。その口調で僕は理解した。江口さんは単にプラトニックに本田さんに想いを寄せていただけではなく、深い関係になっていたに違いなかった。そのことに僕は軽い衝撃を受けた。
「もう昔のことよ。あれから何年も経っているもの」
「本田さんは同性の僕から見ても魅力的な人でした。江口さんとはお似合いでした」
「それって、慰めなのかしら」と笑顔を取り戻した江口さんは言った。
「分からないけど、本当にそう思うんです」
「人生の森は深く、道は見失いやすきもの」
「なんですか、それは?」
「アンドレイ・タルコフスキー監督の映画『鏡』にそういう台詞が出てくるの。私のいちばん好きな映画」
僕はその映画を見たことがあるような気がしたが、はっきりとは思い出せなかった。
「コーヒーのおかわりはいかがですか」僕は言った。
「いただくわ」
僕はサーバーに残っているコーヒーを二人のマグカップに注いだ。注ぎながら、このコーヒーを飲んだら江口さんは帰ってしまうのだろうかと考えた。会社に勤めていた頃、江口さんは実家から通勤していたはずだった。今はどうなのか、僕は知らない。
「僕は構わないんですけど、遅くなると家の人が心配しませんか」自分の気持ちと裏腹のことを僕は言ったのだが、彼女は表情を変えずに答えた。
「今は実家を出て一人暮らししているの。山本君と同じよ。だから心配しないで。それとも、もう私に帰って欲しい?」
「そんなことないです。逆です」
「じゃ、キスして」
僕は驚いてマグカップを落としそうになったが、そうはならなかった。僕らはしばらくのあいだ見つめ合い、それからキスを交わした。僕はなんだか初めてキスをしたときの高校生の時分に戻ったような気がした。でも相手は美しい大人の女性なのだ。
僕らは長いあいだ黙っていた。口を最初に開いたのは僕だった。
「江口さんは憧れだったんです」
「気が合うわね。私も山本君のこと好きだったのよ」
「でも江口さんには本田さんがいるって、僕は思ってました」
「そのことはもう言わないで」
「分かりました。今夜はゆっくりしていってください。でも」
「でも?」
「ひとつお願いがあるんです」
「なにかしら?」
「その辺りを一周するだけでいいので、僕を江口さんのSR500にタンデムで乗せてもらえませんか」
「それはいいけど、でも、ヘルメットは私のしかないわ」
「実は競輪用のヘルメットを人からもらって持っているんです。本当はオートバイ用じゃないけど、調べなきゃ誰にも分かりません。いいですか?」
「いいわよ」と江口さんは即座に言った。
今思い出すと、自分がなぜあんな提案をしたのかよく分からない。でも確かにそのときは、江口さんと同じオートバイに乗りたかったのだ。それが二人で部屋の中でキスの続きをすることよりも大事なこと、切実なことのように僕には思えたのだ。
僕は江口さんと抱き合うまえに彼女のオートバイに乗せてもらいたかった。なぜかは分からないけれど、そうしなければならないような気がした。
僕らはすでにとっぷりと暮れた宵闇の中に出た。江口さんは二輪の駐輪場に止めたSR500の向きを変え、四階建てのアパート二棟に挟まれた駐車場をオートバイを押していった。僕は後ろで押すのを手伝った。
中学校の校庭に沿う市道に出たところで、彼女はまたSR500にキックをくれた。黒い革ツナギの金具が街灯の光を反射した。今度もSR500の単気筒は一発で目覚めた。
江口さんはそのままオートバイに跨って、傍らに立っている僕に言った。
「さあ行くわよ。準備はいい?」
僕は競輪用ヘルメットのストラップが締まっていることを確かめてから答えた。
「オッケーです、キャプテン」
「しっかりつかまってくれて大丈夫よ」
僕は江口さんの後ろのシートに跨って、足をステップに乗せた。それから、おずおずと彼女のボディに両腕を回した。なんだかそれはキスよりも胸が高鳴るようなことだった。キスよりもエロティックで、どこか倒錯した行為のような気がした。
江口さんがスロットルを捻ると、ビッグシングルは小さな雄たけびを上げるように唸り、僕らを乗せたSR500は振動を高めながら市道を加速していった。
近所をひと回りするだけだと思ったら、江口さんはハンドルを郊外に向けて僕らの乗ったSR500を丘陵の丘の上に導いた。春の夜の中を黒と銀の単車が駆け抜け、すでに花の散った桜の梢が頭上を通り過ぎた。単気筒特有の強い振動の中で僕らはオートバイと一体化していた。まるでそれは旧い旧い複葉機か何かで、夜の闇を低空飛行しているような感覚だった。
僕らはほとんど言葉を交わさなかった。もちろんインカムなどなかった時代だし、あったとしてもそんなものは必要なかった。僕らはSRの車体の上で、沈黙していた。その代わりに僕らの心臓は互いの高鳴りを伝え合っていた。
山頂に近い駐車スペースのところに江口さんはSR500を導いた。
そこからは市街地と港の夜景がよく見える。僕らはオートバイから降り、そこで夜景を前に、ガードパイプにもたれて並んだ。ヘルメットを江口さんは外し、首を振って髪を整えた。僕もヘルメットを外した。辺りには誰もいなかった。
江口さんと僕はもう一度キスを交わした。今度は高校生のときのようなキスではなく、別のやり方で彼女の唇を確かめた。寒くなるほどではなかったけれど、風が静かに吹いていた。
「きょうは不思議な日ね」と江口さんは言った。「年下の男性に再会して、アパートで食事をごちそうしてもらって、タンデムでミニツーリングして、キスまでしちゃった」
「僕はきょうのことは忘れないと思います」
「私もよ。でももう、そんなよそよそしい喋り方をしなくてもいいのよ」
「くせみたいなものなんです」
「もう私は山本君の先輩じゃないんだから。ただの、少しだけ年上の女よ」
「じゃあ、どう呼んだらいいんでしょう」
「うーん。ちょっと考え中」
「答えが出たら教えてください」
「必ず教えるわ」
それから僕らはもう一度ヘルメットを着用し、さっきと同じようにSR500に跨って丘陵を下った。僕は江口さんに訊いたことの答えをベッドかソファの上で聞くことができるのじゃないかと思っていた。
けれど、僕のアパートの入口の市道まで来たところで江口さんはSRのイグニッションを切った。そしてそのままでしばらく佇んでいた。
「どうしたんですか」と僕は彼女の背中から訊いた。
「分からないの」と江口さんは答えた。「山本君にどう呼んでもらいたいか、私、分からない」そう言っている彼女の肩は革ツナギ越しに少し震えているように見えた。
それを聞いて僕ははっとなった。江口さんは本田さんか、あるいは僕の知らない別の男友達に呼ばれていたのとは違う仕方で呼んで欲しかったのかもしれない。
僕がどう彼女を呼んだらいいか考えているうちに、江口さんは黙り込んでしまった。
そして次に彼女が口を開いたときには、僕は一人でSR500のシートから降りるほかなかった。
「ごめんなさい」江口さんの声には涙が滲んでいた。「私、きょうはこれで帰るわ。でも誤解しないで。山本君のことが嫌いになったり、その、二人で素敵な時間を過ごしたいという気が変わったわけじゃないの。でも今日はだめなの。分かって。お願い」
「いいですよ。またオムレツの支度をして待っています。でも江口さん、運転大丈夫ですか?」
「平気よ。気をつけて帰るから。今日はありがとう。私、忘れない」
それだけ言うと、また彼女はデコンプのレバーに触り、キックした。今度は一回目ではかからず、二回目でエンジンが唸り始めた。
そうして黒い革ツナギに包まれた江口久子は春の夜の闇の中に遠ざかり、消えて行った。あとにビッグシングルの鼓動と僕ら二人の心臓の高鳴りを残して。
あれは一九九〇年頃のことで、携帯電話も電子メールもインターネットもSNSも、まだ普及していなかった。僕は自分の名刺を渡すことも忘れていたし、江口さんの電話番号を聞くことも忘れていた。
その後、江口さんから連絡が来ることはなかった。カフェ「ラ・ニーニャ」に彼女がふらりと現れることもなかった。僕は昔の仕事仲間に会ったりする機会があると、それとなく江口さんのことを訊いたりしていたが、彼女の消息はようとして知れなかった。
江口さんとタンデムで走った日から七年後に僕は今の連れ合いと知り合って、所帯を持った。僕は結局オートバイの免許は取らなかった。いや、これからだって取ることはできるのだが、たぶんそうはならないだろう。江口さんはオートバイ、僕はランドナーなのだ。
僕が江口さんを招き入れた旧い鉄筋コンクリートのアパートは、僕が結婚して別の場所に引っ越ししてしばらくしてから取り壊され、あとに今風の戸建て住宅が十軒ほど建った。
そして今でも、僕が判別できるオートバイはヤマハのSRシリーズを筆頭に、ごく限られたモデルしかない。
僕はSR400とSR500を見ると、彼女をどう呼ぶべきだったのかを思い出す。でもそこには解はない。あるのは、江口久子の頬を伝っていた涙だけだ。
(了)