宇宙

雲粒親娘

   矢田和啓

 天空の羊の大群がいっせいに射精したみたいなべたついた雨が、この立方体の宇宙の中にもいっせいに降ってきた。実験室のような環境下を彷彿とさせるこの巨大な立方体の宇宙をひっくり返すと、雨はそれまで落下した方向とは逆方向へ飛んでいく。それはまるで産気づいたゼリー状の胎嚢から生まれたばかりの銀色のたまじゃくしが流れに逆らって泳いでいるかのようで、この宇宙の観察者である私もとても不思議な気持ちになるのだった。宇宙は定期的にひっくり返されて、内部の水蒸気圧が一定に保たれた上で、絶えず攪拌されていた。宇宙の中を漂っていた雲塊は、ただでさえミー散乱で灰色く見えるのに、ペニス状の雲がヴァギナ状の雲の中に発射した白銀の雨の奔流のためによりいっそう輝いて見えるのだった。それはこれから始まろうとしている新しい雲の誕生を暗示させるきらめきだった。
「ぎんぎらぎんに光ってて、とっても綺麗。ねえパパ、これからどうなるの?」宇宙を観察していた娘が言った。
「雲の受精が起こるんだ。よく見ていてごらん」
 娘はじっと注視していた。宇宙の中では、ヴァギナ状の雲の奥深くから胞子のような真綿の固まりが一つ浮かび、娘のすぐ鼻先まで近づくと、ペニス状の雲が射出した銀色の奔流をふわふわと浮かぶ羽のように交わしながら舞い、精子と卵子の追いかけっこが起こって、白龍がうねりながら飛ぶような光景が観察された。それがしばらく続いた後、白龍はゆるやかに速度を落としてヴァギナの奥深くへと落ち着いていき、着床が起こる瞬間には真綿は静かに雲の一部となって溶け込んでいった。
「ねえパパ、あの銀色のうねうねしたのが、精子っていうの?」娘は興奮して尋ねた。
「そうだよ。銀色のうねうねしたのの先端には綿みたいなのが浮かんでいただろ? あれが雲の卵、つまり卵子なんだ。それの後を追いかけていた銀色のおたまじゃくしみたいなのが、雲の精子。普通は雲の卵子一つに対して雲の精子一つしか対応していなくて、その結果生まれてくるのは一匹の雲の子供なんだ」
「へえー」娘は真剣に話に聞き入っていたが、目先は立方体の宇宙の中に夢中だった。
 宇宙の中では、潰れて撓んだ液体の球のような雲の卵子が、他の雲核を吸収して分裂を始め、次第に膨らみ出しているところだった。やがてそれは飽和水蒸気量の高まりによって乳房のような丸みへと高められ、ヴァギナ状の雲の頂上へと上り詰めようとしていた。
「あそこの細長い雲のところで光っているのは何?」娘がペニス状の雲を指差して尋ねた。半島のような形をしたその先端部から内陸部にかけて、稲光が生じては雨粒が放出されていた。そしてその雨粒は揮発して上昇気流に乗って空へと飛んでいくと、また新しい雲になっているのだった。
「あれは雲の単為生殖だよ。雲が降らした精子がそのまま気体になって再び雲になる。その過程が再現されているんだ」
「単為生殖って何?」
「相手なしで、一人で子供を作ることだよ」
「雲ってそんなことができるんだ! 不思議ね!」娘は雲に夢中になっている。娘は立方体の中で変化していく対象をじっと目で眺めて、分からないことがあればその都度私に聞いてくるので説明してやった。例えば、雲の発生のメカニズム、成長の過程、男の子の雲と女の子の雲の違いなど。基本的には、我々観察者の存在とほとんど類比的に考えられているため、雲に関するそれらの説明は、比較的容易かった。そんな中、娘はこんな質問をした。
「最初の雲はどこから来たの?」
「最初の雲?」
「パパの説明だと、男の子の雲と女の子の雲が合わさって新しい雲ができるんでしょ? それなら、男の子の雲と女の子の雲もなかったときの、古い古い時代の雲はどこから来たの? それも一番最初の雲はどこから来たの?」
「それは、この宇宙の外からやってきたんだよ」
「それなら、この宇宙の外の雲は、もともとどこにあったものなの? 遠い銀河の彼方からやってきたの?」そう尋ねる娘の目線は、私の説明に科学的な根拠というよりは哲学的な根拠を求めているような気さえした。
「雲の元になるものはね、基本的には水なんだ。だからここに飼育されている宇宙は、雲の元になる水分を、どこか他の場所から運んできたんだと思うよ」
「それはどこにあるの?」
「その疑問は、観察者の権限では知ることができないんだよ」私は少し焦った。娘が意外にも核心的なところに踏み込んできたからだった。
「それなら、どうしてパパは雲を飼うことができたの? どうして宇宙を所有できたの?」
「それはね……多分太古の昔から知られていない秘密なんだ。パパがこの宇宙を手に入れたときにはもう、パパのお父さんがこの宇宙をもっていたんだ。パパのお父さんはどこからこの宇宙を手に入れてきたかを教えてくれなかったんだ。観察者の任務は、この立方体の宇宙を誰にも譲り渡さず、守り続けることにあるんだと、パパのお父さんは言っていた。だから、パパにもどこからこの中に入っている水がやってきたのか、知らないんだ」
 ふぅん、と娘はつまらなさそうに言った。
「ねえパパ、この宇宙、私が大きくなって大人になったら、私にくれる?」
「そうだなあ。いい子にしてたら、考えてあげてもいいよ」そう告げると、娘は歓声を上げて喜んだ。

 宇宙の中で受精した雲は日に日に成長し、奇態な様相を呈してきた。始まりは乳首のような小さな塊だったのが、やがて乳房ほどの大きさになり、次第に風船のように膨らんでいった後、バランスボールほどの大きさを経て、今や宇宙の全体を覆い尽くすほどに大きくなっていた。形態は様々で、見たこともないような馬鹿でかさの、地に足のついた巨大な怪物のようになったかと思えば、鳥のような翼を持った姿にもなって疎らに散っていったり、蛙のようながま口を広げて他の雲を食べたりしてもいた。
 娘はその様子を寝食忘れて眺めていたが、あるとき私に言った。「お父さん、やっぱりこの雲おかしいよ」
「どうしたんだい?」私はそのとき学会に雲学の研究成果をまとめる作業をしていたので、話半分で聞いていた。
「私たち観察者にはある、耳と目がこの雲たちにはないわ。どう考えても、どこにもそれが観察できない」
「本当かい?」私は耳を疑った。雲に耳や目があるなんて考えたこともなかったからだ。雲の主成分である水分子の水素結合を考えれば、雲に耳や目が生じることは可能性としてはあり得るだろうが、それは私が父から聞いていた話とは随分異なった雲の姿だった。
「どうやって雲は耳も目もないのに、誰か他の雲を好きになったり嫌いになったりできるのかしら?」
「考えたこともなかったよ。不思議だね。でもそれは我々観察者が、皮膚がないのに愛し合うことができるのと同じなんじゃないかな。私と君のお母さんになるべき人が愛し合ったから、君が今ここにいる。そういうことなんじゃないかな」
「それもそうかもね」娘は頷いたが、その声の響きにはあからさまな反対の意思表示が含まれていた。「でも、私たちは観察のために最適化された身体だからこうして観察ができるわけでしょう? でもこの子たちは何のために最適化された身体を持っていると考えられているの? この子たちは耳も目もないのにあまりに自由に動き過ぎる。この子たちはあまりに自由に生まれたり消えたりする。どういう力がそこには働いているのかしら?」
「私にもわからない」もう限界だった。「ちょっと論文に集中させてくれないか」
「パパはいつもそうやって課題から逃げようとしてはいない?」
「これも課題なんだよ」私はそう答えるのが精一杯だった。いい加減、娘の詰問から逃げ出したかった。娘は私の視線の冷たさを感じたのか、それともただ単にこちらに関心がないだけなのか、ふぅん、と一言返したっきり、雲を見るのに夢中になっていた。

 娘は次第に成長していった。十三歳になったある日、雲がどのように生殖をするのかについてやたら詳しく聞いてくるようになったので、自然発生する雲の種類について教えてあげた。雲には主に巻雲と積雲と層雲の三種類が存在すること。雪や雨を発生するのは積雲のうちに含まれる積乱雲であるということ。この辺りは雲の基本的な知識だったが、さらにその先の知識――すなわち雲が生殖をするのは極めて偶発的な雲同士の雲核の結合によること。雲核が雲の精子となったり雲の卵子となったりすることなどを仔細に説明した。しかし娘にはその説明では物足りないらしく、こんな風に聞いてくるのだった。
「どうして、雲核が雲の発生源なのだとしたら、雲を観察者の力によってコントロールできないのかしら? 雲の発生がコントロールできるようになれば、この宇宙内にも平穏が齎されるんじゃないのかしら?」
「私たちが見ているのはあくまで雲だけが生育しやすいような環境が整えられた宇宙だから、雲の生育条件にとって最適化された場なんだよ。別に雲はなんの感情も持たないし、魂もないから、平穏も何も関係がないんだ」私がそう答えると、娘は不思議そうな顔をして私を見つめた。
「雲に魂はないの? どういうこと?」
「雲はあくまで現象であって、現象には魂が存在する余地がないから、雲には魂はないんだよ」
「雲に魂が存在しないなら、どうして生殖を行おうとするの? 私たち観察者の存在と、どれほど違うというの?」
「私たち観察者だって、あくまで観察のための器官こそ存在しているけれども、生殖それ自体はメインの役割じゃない。それと同じことだよ」
「それなら、どうやって一番最初の雲は生まれたの?」
「だから、雲は現象だから……」
「その現象を起こしたのは誰?」
「それは……その謎は不完全だね。誰々にとって、雲という現象が存在するのは何故なのか、その答えを明かすのは私たち観察者の使命ではないんだよ」
「昔読んだ本に書いてあったんだけどね……あらゆる物事っていうのは、現象こそが本質であって、現象に先立つものは何もない、っていう言葉があったんだけど、それならどんな生命も現象に過ぎないから、私たち観察者の生命も現象だし、雲の生命も現象だってことにならないかしら?」
「その理解でいくなら……」私は反論の矛先を変えることにした。「観察者が行う観察という行為も、思考する行為も、みんな現象ということにならないかい? すると問題は、そうやってすべてを現象ということで片付けたとして、現象を解明したことになるかどうか、ということにあると思うな。パパは、観察者でありながら、観察者の領分というのもあると思っていて、あらゆる出来事を現象という名前で片付けるのには賛成できないな。いったいどこにそんなことが書いてあったんだい?」
「わからない……」娘はしょげた顔をした。「忘れた」
 娘は素っ気ない返事をしたっきり、他の本を読み始めた。『雲の生態』『雲の歴史』などなど。結局娘が読んだ本がいったいなんだったのかはわからないままだった。私は疑問に答えたつもりだったのに、どこか狐につままれたような感じがした。果たして私は本当に疑問に答えたことになっていたのだろうか? どころか、疑問をさらに深めたのではないか? 娘の雲研究への熱心ぶりは紛れもなく雲観察者としての資格としては申し分ないものがあった。しかし娘は雲について本質的に何かを誤解しているのかもしれないとも、そのとき私は思った。
 そのとき娘はどこで読んだか覚えているにもかかわらず、忘れたふりをしたのかもしれない。あるいはそれは私の中でわだかまりを生じさせるためにわざとやったのかもしれない。その真意がわからないまま、歳月は過ぎた。

 やがて娘も二十歳になり、雲観察を引き受ける時期が来た。雲の秩序を乱さないこと。雲がなすがままにしておき、それを記録し続けること。雲が何をしているかを考察するのは、観察者の任務ではなかった。それは雲の解釈者の任務であって、私たちの仕事ではないのだと、娘に説明した。
「ありがとう、お父さん。雲の観察者の仕事、少しずつやってみるよ」
 はじめは、娘を促して記録を付けさせることからだった。娘はそつなくそれをこなしてみせた。次に任されたのは宇宙の管理だった。このときになって娘は初めて、宇宙の組成がほとんど水素と酸素しかない特殊な環境であることを知ったのだった。娘は宇宙に接続する端子について教わり、水蒸気と熱気の量を管理する立場になった。しかしここまでは義務教育の化学の知識でも理解できることだった。娘は更に進んで、宇宙をより理論的に高度な形で構築することを考え出した。それは次のようなアイデアだった。
「私が考えるに、今の宇宙に不足しているのは音なのよ。音の振動は雷雨があるじゃないかって言うかもしれないけど、それは微小観測値の差異の連続に過ぎない。問題はそれが累積した環境下において、雲についてどのような挙動が見られるかということ。例えば音楽を聴かせたときにどうなるかって話。私の推測によれば、この宇宙内の環境は、一般的に考えられているような誤差の範囲には収まらず、その誤差も積み重なることによってカオス的な世界を様相し、雲の形成そのものに変化が現れると思うの。どうかしら、この仮説」
「それは確かめてみる価値のあることだと思う。でも今は宇宙の管理が大切なんだ。続けてみようよ」
「宇宙全体を統括するマスタープラグはないのかしら? そこから大音量で『千本桜』を流し続けたいものね。もうCDの準備はできているの。随分前からそのことを考えていて、学校の極秘棚からその音源を入手してきたの。銀河系発生から約四十六億年後に発生したとある緑色惑星の技術的特異点に存在したレコードよ。比較対象として用意したのがいくつかあるわ。見る?」
「うーん……」
「この緑色惑星はとても音楽的に豊かでね、調性の取れた音楽もあればない音楽もあったし、リズムのある音楽もあればないものもあった。例えばオリビエ・メシアンという作曲家が録音した、もう絶滅してしまったヒクイドリという鳥類の鳴き声の音源も残っているの。それは文書館のアカシックレコードに刻まれていたわ。それも借りてきた。あとは……」
「もういい、わかったよ」私は根負けしてしまった。「確かに私たち観察者は宇宙の孤独な音響環境にしかないかもしれない。でもその実験は、雲に何が起こるか本当にわからない。この世界では水分は貴重なんだ。雲研究のために私たちの身体のパーツも少しずつ雲核になるように変えてあるぐらいなんだ。だから、慎重にやってくれ。もう雲研究からは、パパは降りることにするよ」
「ありがとう……。なんだか、嬉しいんだか悲しいんだかわからないわ」そう言った娘の瞳には、感極まってエタノールの涙の噴流が溢れてきていた。

 娘はさっそく私が教えてあげたマスタープラグに繋いで実験を始めた。流した音楽はまず「H ZETT M」の『新しいチカラ』が収録された『未来の音楽』というアルバムで、その旋律は力強く来るべき未来に向かって前進していくような感じがするものだった。「自分で未来の音楽と名乗っているって、不思議な感じがしない? 現在の音楽なのに未来の音楽だって言うことは、現象論的には不可能じゃないかしら。このアルバムはそんな不可能にも近い、ある種のストラヴィンスキー中期の構築主義的音楽観を模倣したようなところがあって、そこがお気に入りなのよ」娘はそう言って宇宙の中の反応に見入っていた。「空飛ぶ放射能」という曲に差し掛かったとき、受精した雲の受精卵が、それまで見たこともないような傘を持った雲へと成長し始めた。「キノコ雲だわ! 私の予想通り、観察者の存在を超越しかねないものが現れたのよ。この音源を作ったニンゲン、という種類の生き物に勝るとも劣らない新しい生命体、本当の雲魔物よ!」もはや娘が何を言っているのかは理解できなかったが、宇宙の壁に亀裂が入っているのを見た私は、実験をやめるようにと提案した。
「もう、いいんじゃないか。雲の成長する圏が異常を来している。このままでは宇宙そのものが炸裂してしまうよ」
「まだよ! まだ続けなくちゃ! これは新しい成果なのよ! これからが本番なのよ!」娘は別の音源を取り出し、流し始めた。チック・コリアの『ロマンティック・ウォリアー』が掛かり始めた。雲はたちどころに無数の飛行機雲のような直線状の雲を放散し始めた。「雲核が飛行するジェット気流のせいでこういう雲が生じているのよ。きっと素晴らしい雲が生まれるわ。雲の誕生の神秘に迫れるかもしれない!」「やめるんだ! 雲核が宇宙を突き破って溢れ出しているよ!」それはまるで星たちが降り注ぐ夜空のようだった。宇宙から雲が溢れ始めた。研究室は雲が生み出した雨や雪のために観察のための記録文書を次々と濡らし、娘もびしょ濡れになって泣いたような顔になった。しかし娘は平気で次の曲を掛け始めていた。たまらず私はショパンのタランテラが掛かる中を、娘の暴走をそのままに部屋を出るしかなかった。
 雲の生殖が活発化したためか、雲の粒子が充満した研究室は、粉塵爆発を起こした。その衝撃で吹き飛ばされ、転がって何もないあざみ野に放り出された。私は娘に声をかけようとしたが、轟音と鬱蒼たる雲の立ち込めるこの空間においてはもはや何も見えず、聞こえなかった。
 どうしてこんなことになってしまったのだろう? 私が仕事の忙しさにかまけて娘の話をもっと聞いてやればよかったのだろうか? それとも娘にとってはこれが必然だったのだろうか? 何もわからなかった。ただ闇だけが辺りを支配していたのだった。

(了)

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