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紀伊半島とニホンオオカミ(1)わが国のオオカミ概論


「昔、高野山にオオカミがいた」


▼これは、管理人が子どもの頃に、明治・大正・昭和を生き抜いた祖母がよく話していたことです。オオカミといわれても、ちょっと現実味に欠けるかなという感覚です。
▼しかし、思い返してもみれば、昭和後期頃までの和歌山県は野良犬が自由に跋扈していたものです。現在、天然モノの獣は人間界の生活空間で存在してはならないことになっていますが、ほんの4、50年前までは、人間と野生動物との距離がかなり濃密であったことは確かです。
▼ということで、「ちょっと動物でも勉強してみよっかな」と思いつきました。紀伊半島で獣といえば、まずはニホンオオカミ、つぎにクマです。とりあえず、数回に分けて「紀伊半島とニホンオオカミ」と題して、伝説的動物ニホンオオカミに迫ってみたいと思います。

1.わが国のオオカミ概論


▼わが国にかつて存在したオオカミは、北海道にいたエゾオオカミと、本州、四国、九州にいたニホンオオカミの2種類のみです。
▼しかし、オオカミはイヌとの近親性があり、実際に交雑も行われていたようです。日本の場合、オオカミ、ふつうの家畜犬や野良犬とは別に「ヤマイヌ(山犬)」という種がいたことになっており、「ヤマイヌとニホンオオカミの違いは何か」という学術論争が真面目に沸騰していた時期があります。この、ヤマイヌについてはのちに触れます。

(1)エゾオオカミのプロフィール
▼エゾオオカミは、北海道、サハリン、千島列島にかつて存在したオオカミです。
▼形態学的には、体長70~80㎝とかなり大きいこと、歯(裂肉歯)がほかのオオカミに比べてかなり大きいことなどが特徴です。写真にみるように、明らかにイヌとは異なる顔つきです。
▼遺伝学的には、大陸系のハイイロオオカミと同じ塩基配列で、氷河期にユーラシア大陸と北米大陸を行き来していたものが、サハリンを経由して渡来したと考えられています。渡来した時期は、サハリンと北海道が氷結していた約2万年前くらいではないかとされています(石黒2012)。

北大博物館のエゾオオカミ(朝日新聞社北海道支社報道部編1961:p31)

(2)ニホンオオカミのプロフィール
▼ニホンオオカミは、本州、四国、九州にかつて存在したオオカミです。
▼形態学的には、世界のオオカミの中では体格が小さく、歯牙や上第一後臼歯が小さい、前肢橈骨が短い、耳が小さい、など、あらゆるサイズが小型であることが特徴です(それでも日本最大のイヌである秋田犬よりも大型)(斎藤1964)。
▼遺伝学的には、大陸系のハイイロオオカミの亜種であるものの、ハイイロオオカミとは離れており、孤立化して単系統を形成していたこと、また、紀州犬1頭とシベリアンハスキー犬1頭のDNAが含まれていたという結果が示されています。なお、この結果は、ニホンオオカミと紀州犬、シベリアンハスキー犬が遺伝的に近いということではなく、単にそのような系統を引くサンプルだった(サンプルがそのような個体と交雑していた遺伝的系譜をひく)というだけのことです(石黒2012)。
▼このように、ニホンオオカミは、大陸系のハイイロオオカミから分派して島嶼に閉じ込められ、小型化して独特な集団を形成していたようです。また、複数個体の遺伝子を比較しても変異が少ない(≒多様性がない)ので、その集団規模が小さかった可能性があるとされています。渡来した時期は、朝鮮半島と日本がつながっていた、もしくは氷結していた時代=約13万年前くらいではないかとみられています(石黒2012)。
▼ニホンオオカミは、イヌとの交雑がみられたことや、紀州犬や秋田犬、柴犬といった日本在来犬の一部個体に二ホンオオカミのDNA配列がみられたことから、この交雑についてもそのうち明らかになるでしょう(石黒ら2021)。

(3)いわゆる「ヤマイヌ」をめぐって
▼日本には、家畜としてのイエイヌ(家犬)と、イエイヌが野生化したノライヌ・ヤケン(野良犬・野犬)、野良犬のうち山中に棲息するヤマイヌ(山犬)、そして純粋なオオカミという雑多な分類があり、どれが本当にいてどれが幻なのか、どれとどれが同じで、どれとどれがどのように異なるのかがよく分かっていない状態が近年まで続いていました。
▼個体には個性や変異があるため、外見や毛色だけでは判断できず、しかもオオカミとイヌは交雑するため、どれがオオカミでどれがイヌなのかがわからないというのも無理はありません。また、戦前から戦後にかけて、オオカミとイヌの骨の形状から形態学的な鑑定を行った斎藤弘吉は、発掘された石器時代のイヌ属の骨片を見ても、家畜としてのイヌなのか、野獣としてのオオカミなのかは判別しにくいと述べています(斎藤1964)。このことからは、外見だけでなく、骨からも鑑別が難しかったことがうかがえます。
▼イエイヌ、ノライヌ・ヤケン、ヤマイヌなど、さまざまなイヌの名称がある中で、いちばん怪しいのがヤマイヌです。遺伝学的な研究が進む以前は、このヤマイヌとはいったい何者(何物)なのかという議論がありました。要点は、

  ●ヤマイヌとニホンオオカミは同一なのか
  ●ヤマイヌはニホンオオカミ+イヌの交雑種なのか
  ●ヤマイヌとノライヌは同一なのか

というものです(石黒ら2021)。

▼一般民衆レベルでは、歴史的には本物のニホンオオカミを「ニホンオオカミ」とは呼ばず、「ヤマイヌ」と呼んできたようです。
▼学術レベルでは、小原は「野生化したイヌをノライヌというので、ヤマイヌはノライヌではない」また「ヤマイヌはニホンオオカミとは異なる独自の種だ」と主張し(小原1972)、また、のちに取り上げる動物学者今泉吉典らも、ヤマイヌはニホンオオカミとは別種だという説を唱えています。

▼結論として、ヤマイヌという種は存在しません。これは、江戸時代に出島に住んでいた、あの有名な蘭医シーボルトが「ヤマイヌ」と名づけ(正確には、シーボルトが名づけたのではなく、個体をシーボルトに売った日本人がそう呼んでいた)、日本からオランダに持ち帰った標本のミトコンドリアDNA(mtDNA)を解析したところ、ニホンオオカミとイヌのmtDNA以外は発見されなかったことから証明されました(石黒ら2021)。
▼石黒らは、ニホンオオカミの呼び名が定着したのは戦後で、それまではヤマイヌと呼ばれており、ニホンオオカミとヤマイヌを明確に区別する基準がなかったと述べています(石黒ら2021)。

2.オオカミの研究はどのように行われてきたか


▼さて、ニホンオオカミが他の種とどのように異なるかを、どのように判断・判別してきたかという学術的な方法論に少しだけ触れておきます。
▼この方法は、大きく分けて以下の3つのステージを辿ります。

(1)形態学的な計測による比較検討
▼これは、姿かたち、つまり見かけで判断することです。全体の大きさ、頭の大きさ、耳・鼻・胴体・足・尾の長さ、毛色などの外見を他の種と比較検討するものです。
▼外見からの判断・判別が、より専門的な領域に進むと、骨格や頭骨の形態学的な検討となります。ニホンオオカミの場合、その頭骨は古くから呪術的な飾りや置き物として一般民家に多く残されていたことから、それらを標本に研究が行われてきました。
▼形態学的な計測はもちろん行われるとして、初期の形態学的な計測で、なによりも重要視されたのは「目利き」としての鑑定経験でした。ニホンオオカミの形態学的な研究を行った重要人物として、以下の3名をあげておきます(全員逝去)。

今泉吉典(国立科学博物館):
・哺乳動物の形態分類学が専門。爵位を持つ上流階級出身の研究者の多くが、珍品の並んだテーブルコレクションを買い漁って標本にしたのとは異なり、自ら山岳地帯を踏破し、由来が明確な標本を採集した(大竹2018)。

斎藤弘吉(日本犬研究家):
・日本犬の研究家。戦前から戦後にかけて、海外に持ち出されたニホンオオカミの頭骨の石膏コピーを取り寄せ、おもにヤマイヌやイエイヌとの違いを意識しながら形態学的に分析した。学者ではないが、学術論文を多数上梓しており、学界内の発言力が強かったとされる。

直良(なおら)信夫(早稲田大学):
・戦後、ニホンオオカミの頭骨を、おもにイエイヌとの関係を意識しながら形態学的に分析した。また、動物考古学者として、発掘される獣骨に着目した。明石原人や葛生原人で有名。

(2)非破壊検査技術の発展(おもに1980年代以降)
▼非破壊検査とは、X線検査やCTスキャンを動物の骨の測定に使うものです。つまり、形態学的な計測が3D化し、量的な把握が可能になったということです。非破壊検査の有利な点は、骨の内部を調べることができることです。これにより、頭蓋内や鼻、口の内部などを精密に、しかも3次元的に計測できるようになりました(鈴木・佐々木2023)。
▼ただし、この時期は、かつての測定値がより正確になっただけで、見解が大きく変わるなどのトピックはみられていません(なので、このページでも取り上げません…)。

(3)ゲノム解析の時代(2000年代以降)
▼わが国の2種類のオオカミは、すでに絶滅したとみられていますが、残された剥製や骨片、出土物などからDNAを抽出・増幅して遺伝子配列を解析しようとするものです。出土物の骨片などには、保存状態がよければDNAが残存するらしく、数千年前くらいまでの骨は楽勝とのことです(寺井2023)。
ニホンオオカミは、その全ゲノム配列がすでに解析済みです。そして、ニホンオオカミのルーツや、さきに申し上げた「ヤマイヌ」との関係や違いをめぐって、DNA解析(より厳密にはmtDNA)がこの論争を一気に解決させました。

▼現代の二ホンオオカミの研究は、形態学的な計測とDNA解析のハイブリッドで行われているようです。ニホンオオカミの研究における課題は、その生存が絶望的であるため、研究対象となる個体が限られており、個体には個体差や変異、イヌとの交雑があるので、その標準や平均という像がまだ十分に明らかになっていないことです。

*** (つづく) ***


文献

●朝日新聞社北海道支社報道部編(1961)『きたぐにの動物たち(角川新書)』角川書店(引用p31).
●石黒直隆(2012)「絶滅した日本のオオカミの遺伝的系統」『日本獣医師会雑誌』65(3)、pp225-231.
●石黒直隆・松村秀一・寺井洋平・本郷一美(2021)「オオカミやヤマイヌと呼ばれたシーボルトが残したニホンオオカミ標本の謎」『日本獣医師会雑誌』74(6)、pp389-395.
●小原秀雄(1972)『日本野生動物記:オオカミ,カモシカ,カワウソ,イタチとテン,ウサギ,ヤマネコ(自然選書)』中央公論社.
●直良信夫(1965)『日本産狼の研究』校倉書房.
●大竹修(2018)「日本の近代獣医学史―イリオモテヤマネコ・ニホンオオカミ研究の第一人者 今泉吉典―」『動物臨床医学』27(2)、pp77-82.
●斎藤弘(1938)「東京科學博物館倉庫内に発見せられたるヤマイヌの全身骨格並に其他の同資料に就いて」『博物館研究』11(4)、pp27-31(引用p27).
●斎藤弘吉(1964)『日本の犬と狼』雪華社.
●鈴木千尋・佐々木基樹(2023)「ニホンオオカミの形態学~その研究史と今後の発展~」『哺乳類科学』63(1)、pp15-27.
●寺井洋平(2023)「全ゲノム情報から知るニホンオオカミ」『哺乳類科学』63(1)、pp5-13.

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