奈良和歌山の農村和式民家(3)間取り
▼前回『奈良和歌山の農村和式民家(2)屋根の型』では、日本の農村和式民家は、①屋根の型、②間取りの2要素から理解するのがよい申し上げました。今回は、農村和式民家の「間取り」を取り上げてみます。
1.農村和式民家の間取り
▼近世以降における、わが国の農村和式民家の間取りは、大正年間から本格的な研究が始まったといわれています。
▼当初、全国の農村和式民家の間取りは「四間取り型(田の字型)」が原型であると考えられていました(下図参照)。戦前の研究は、全国をくまなく調査しておらず、全体として四間取りが多かったという理由だけで「四間取り型」原型説が採用されていたようです。そして、「広間型」は東北地方に散在する特殊事例と位置づけられました。
▼昭和年間に入ると、実証性に乏しいぼんやりとした調査ではなく、特定の地域を区切って、悉皆的に古民家を踏査すべきという論調(注:悉皆(しっかい)とは、サンプリングではなく全部を調べること)と、平面だけでなく構造(柱と梁の構造)にも着目すべきとする論調が現れ始め、これが戦後の建築史研究に繋がります。
▼戦後、主に東京大学と横浜国大を中心とする関東地方の研究者が現地踏査を繰り返した結果、農村和式民家の間取りの原型は「四間取り型」ではなく「広間型」ではないかとする学説が有力となります。
▼「広間型」原型説では、「広間型」の広間の部分が、台所と座敷(下の間)の2つに分かれて「四間取り型」に進化したのではないかと考えられました。上図でいえば、左の図が右の図に進化したのではないか、ということです。
▼農村和式民家は、長い目でみると、常に取り壊されて更新されていくため、原型を推定することが難しいとされています。対して、常に取り壊されるとはいえ、構造そのものはあまり変化しないのが社寺の類です。そこで、東大や横国大の研究者らは、社寺の復原方法を農村和式民家の構造の分析にも採用できるのではないかと試みたのです。
▼特に、昭和30年代以降、東大と横国大の研究者らは、中部地方と関東地方で詳細な現地踏査を繰り返し、また奈良県橿原市にも足を伸ばして、寺内町の町家群を調査しています。その結果、「広間型」のほうが「四間取り型」よりも古いことを実証したのでした。
▼一方、近畿地方以西では、昭和30年代から40年代にかけて、大阪市立大学の研究者らが大阪府全域、大阪府北部の能勢町、奈良県五條市、奈良県吉野郡の山間部を悉皆に近いレベルで現地踏査し、山間部以外では「四間取り型」が多いと報告しています。
▼ところが、昭和40年代に入って一連の調査研究を継続する中で、大阪府泉南地方では「喰い違い三間取り型」(上図参照)と呼ばれる間取りが多くみられ、しかも、この型が泉南地方だけでなく和歌山県北部の紀ノ川流域、その上流域の奈良県吉野郡西吉野村付近にまで広がっていることが判明したのです。
▼そして、16世紀にまで遡ることのできる「喰い違い三間取り型」の事例がこの地域に多く残されていたことから、構造を調べてみると、「四間取り型」とほぼ同じで技術的に近親性があり、「喰い違い三間取り型」は「四間取り型」よりも古いのではないかと考えられるようになりました。また、あくまでも近畿地方に限れば、近畿の「四間取り型」の原型は「広間型」ではなく、「喰い違い三間取り型」である可能性が高いと結論づけられました。
▼畿内における「喰い違い三間取り型」から「四間取り型」への進化には、特に差鴨居(さしがもい)が柱を補強するという構造面の技術の浸透が大きく関係しているらしく、「喰い違い三間取り型」と「広間型」とでは構造が異なるようです。
▼管理人は建築の専門家でないため、掘り下げることはできませんが、大阪市大の業績は、農村民家の間取りというものは、全国一律の発展過程が共通してみられるのではなく、特定地域内での発展過程があることを明らかにした点で意義があったといえるでしょう(以上、林野 1969,林野 1980)。
▼「広間型」は、主に山間部によくある間取りで、歴史ドラマに出てくるように、広間が台所機能を果たし、囲炉裏(いろり)が設置されていることが多いです。なお、囲炉裏は山間部だけでなく、養蚕業を専業、副業にしていた平地農家にはほぼ設置されており、これで蚕部屋を暖めていたようです。
2.農村和式民家の間取りにおける4つの構成要素
▼現代の日本の住宅では、「2LDK」「3LDK」などの表現が用いられます。町田と木谷は、この表現が一般化したのは1950年代後半からであると述べています(町田・木谷 1996)。一方、日本古来の農村和式民家には、以下の4つの構成要素が必ず登場します。すなわち、①台所、②納戸、③座敷、④土間です。
①台所:
▼一般には、「勝手(カッテ)」、和歌山県北部や奈良県では「ダイドコ」と呼ぶことが多いようです。
▼台所は、通常は北側ないし表玄関とは逆方向(裏庭)に開いています。農村和式民家において、台所は閉鎖空間=第三者から見られると困る空間とみなされます。閉鎖空間であるがゆえに、台所は表の入口からは見えないようになっていて、かつ裏庭に対して開放されています。
▼また、台所は家族が食事などの団らんをする場所であって、現代の台所のような炊事機能や流し機能はありません。農村和式民家の場合、土間の北側ないし北東側に竃(カマド)が置かれ、炊事や皿洗いをするときは、台所からいったん土間に降りて、そこで炊事等を行います。なお、多くの農村和式民家には、主屋の北側=裏庭に井戸が設けられている事例が多く、これは炊事や家事を行う上で利便性があったためと考えられます。
②納戸(ナンド):
▼納戸は、和歌山県北部では「寝間(ネマ)」「部屋(ヘヤ)」と呼ぶことが多いようです。
▼大家族の場合は、納戸が複数あります。例えば、管理人の実家では、親夫妻が使う納戸を「ナンド」、祖父母夫妻が使う納戸を「ヘヤ」と呼び分けていました。
▼納戸は、通常はあえて採光性の悪い北西の方角に配置されます。これは家相によるもので、「納戸は暗くするのが良い」「明るい納戸のある家は金が貯まらない」などという家相、縁起があるようです。昔の納戸は、昼間も暗く、小窓もせいぜい1つだけというのが標準です。
▼納戸は、台所以上にプライベートな空間で、管理人は他人の家に遊びに行くなどした際に、納戸の中を見たことがありません。但し、家族に死者が出た場合は、遺体を納戸に安置していることが多く、その関係で親族宅の納戸には入ったことがあります。納戸は、遺体安置にとどまらず、さまざまな秘め事が行われる、いわば陰なるプライベート空間であり、その意識そのものは現代も変わっていないと考えられます。
③座敷(ザシキ):
▼座敷は、表玄関側、かつ西南側に配置されるのが標準です。また、大きな家では、上の間(カミノマ)と下の間(シモノマ)の2つに分かれ、上の間が西南角、その右側が下の間で、和歌山県北部では特に上の間のことを「オク」と呼んだりします。
▼座敷は基本的には客間であって、居住者や血縁の近い者はそれを使用しません。また、親しいご近所さんとの日常的な交流にも使用しません。使用するのは、集落外からの重要な来客時と、集落全体で行われる各種の講や寄合が開かれるとき、そして葬式のときです。親しいご近所さんの日常的な訪問には、勝手口や土間の上がり框(かまち)で対応するのが原則です。
▼野田によると、座敷に畳を敷くようになったのは明治年間以降で、普段は畳を上げて立てかけておき、集会時にのみ敷いたそうです(平時にはムシロやゴザを敷いておき、油断ならない客が来たときや寄合のときだけ畳を敷く。野田 1974)。このように、座敷はあくまでも非日常的、儀式的な空間であったといえます。
④土間(ドマ):
▼土間は、もともと手動の農機具を置いて室内で農作業の一部ができるように作られた空間です。したがって、機能という点から土間をみると、その現代的意義は全くありません。そのため、現在新築される和式民家に土間はほとんど存在しません。
▼また、土間の北側ないし北東側には竃(カマド)があり、そこで料理の煮炊きをしていました。和歌山県北部では、竃のことを「ヘッツイ」「ヘッツイサン」と呼ぶことが多いです。主屋と厩(ウマヤ)(後述。主屋の東側に連接する農業用牛の厩舎)が連接している農村和式民家では、竈の余熱を厩に引きたいがために煙出し(煙突)を設けないことが多く、竈廻りは下写真のように煙まみれになって、土間の柱や梁が真っ黒になっていることが多いです。人間も牛馬も、よく酸欠にならなかったものです。
▼以上が、農村和式民家の間取りにおける4つの構成要素です。これら4つに加えて、土間の右隣(東側)には物置や貯蔵庫、風呂、トイレがあり、かつてはその部分で農業用の牛を飼っており、「ウマヤ(厩)」と呼ばれていました。また、漬物置場(北側や裏庭に配置されることが多い)、上流階層では土倉(土蔵)などの付属建物があったりします。
▼間取りを勉強していて興味深いのは、日本の農村和式民家には「個室」という概念が全く存在しないということです。現在新築される和式民家は、それが平屋であろうが二階建てであろうが、何らかの形で家族員の個室が設けられているものです。しかし、昭和中期までの農村和式民家にはそれがなく、家族員は台所を中心に(納戸はともかくとしても)各部屋を共有するしかなかったようです。
▼その代わり、自他、内外の区別は徹底されており、「結界」にみるように、ここから先は部外者立入禁止という、躾というかマナーというかルールというか、集落員同士の交際倫理が家屋の構造や機能に反映されていることがやたら面白かったです。
▼さて、このページを書くにあたって、農村和式民家の間取りの発達史を読みました。文献には、民俗学的な立場のものと建築史学的な立場のものがあります。文献を読んでみると、農村和式民家の間取りの発達史よりも、間取りの「研究」の発達史のほうが強く印象に残りました。
▼民俗学的な立場では、外見の類似性に生活様式の変化といった変数(但し、民俗学的な方法論では量的研究が行われることはほとんどありません)を加えながら知見を積み重ねていきます。
▼こうした民俗学的な、特に表面的な類似や相似から発達史を論じるという方法論が、建築史サイドには実証性に乏しいと映るらしく、戦後の東京大学や大阪市立大学の業績は、民俗学の方法論を全否定こそしないものの(間取りの機能もちゃんと検討している)、外見だけでなく構造を緻密に比較することによって実証性をクリアし、間取りの発達を客観的に明らかにしたという点で、類推に頼る民俗学的な方法論に一石を投じたといえるでしょう。
***(つづく)***
文献
●林野全孝(1969)「大阪府を中心とする四間取り民家の変遷と特質」『日本建築学会論文報告集』163、pp77-86.
●林野全孝(1980)『近畿の民家:畿内を中心とする四間取り民家の研究』相模書房(引用巻頭).
●平山忠治(1962)『民家』彰国社(引用p64).
●近畿民俗学会編(1980)「和歌山県伊都郡かつらぎ町天野共同調査報告集(Ⅱ)」『近畿民俗』84/85、pp1-9(引用巻頭).
●町田玲子・木谷康子(1996)「寝床の歴史―民家にみる就寝空間と寝床―」『繊維製品消費科学』37(3)、pp17-22.
●宮崎県教育委員会(1973)『宮崎県の民家:民家緊急調査報告書』宮崎県教育委員会(引用p写真9).
●二川幸夫撮影・伊藤ていじ解説(1962)『日本の民家』美術出版社(引用pp14-15).
●野田三郎(1974)『日本の民俗30:和歌山』第一法規出版.
●静岡県教育委員会(1973)『静岡県文化財調査報告書.第12集(静岡県の民家)』静岡県教育委員会(引用p66).
●薮内芳彦(1954)『和歌山縣新誌.改訂版(郷土新書30)』日本書院.