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奈良和歌山の農村和式民家(4)町家

▼和歌山県北部と奈良県南部は、古代には奈良に都があったおかげで、四国から奈良平城京に向かう南海道が発達していました。また、和歌山と奈良の2地域は、西日本における事実上の中心都市大阪に隣接していることから、大阪中心部に向かう高野街道(大阪⇔高野山)、竹内街道(大阪⇔奈良)などの街道もまた発達していました。
▼こうした、都市と地方を結ぶ街道、地方と地方を結ぶ街道が、別の街道と交わるところを「」いいます。辻は当然、人通りが多くなることから、いつしか人が集住し始めて商業が発達し、町家(まちや)が形成されます。
▼ということで、今回は、和歌山県北部と奈良県南部の「町家」を取り上げてみます。

現奈良県大和高田市井戸野町における街道沿いの民家(町家ではない)。わずかに電柱が見えることから、大正時代から昭和初期頃の風景と思われる。(日本建築協会創立45年記念出版委員会編 1962:p116)

1.町家の定義


▼町家とは何かについて、全国に適用できるような客観的な定義を求めることは難しいようです。
▼浅野ら大阪市立大学グループは、昭和40年前後に奈良県五條市の町家を詳細に調査しています。浅野らの業績は、奈良盆地初の町家建築研究で、町家の発展段階を編年的に示し、のちの民家調査の先鞭をつけたものとして評価されています(大場 1989)。「編年的に」とは、江戸時代前期はこういう特徴、中期は、後期は、・・・というように、時代ごとの特徴を順に並べていくことです。
▼しかし、浅野らは、町家のどの部分を指標とするかを試行錯誤した結果、間取り建物構造の2点からその変遷を検討した一方、戸締りの方法・形式や、内法寸法(家屋内側の寸法)、柱間寸尺(柱の数やその間隔)などは、編年的に並べる指標としては役に立たなかったと述べています(浅野ら 1959①)。
▼また、青木と藤原も、町家の平面的構成を検討する上で、典型的なものと変型的なものが数多く存在すること、町家という集合の境界が明瞭ではないことなどの課題をあげ、町家の明確な定義は研究者間でも揺らいでいると述べています(青木・藤原 1994)。
▼この『奈良和歌山の農村和式民家』シリーズは、緻密な定義を追求するものではないので、町家をできるだけ想像しやすいように、青木と藤原による操作的な定義をあげておきます(青木・藤原 1994)。すなわち、町家とは以下の5つの要件を満たすものをいいます。

①都市に建てられている(ここでいう都市とは「密集地」とみなす)
②通りに面している
③土間がある
④農業以外の正業のものである
⑤戸建て木造住宅(ただし二戸建町家を含む)である

▼なお、和歌山県北部と奈良県南部には、現在の和歌山県和歌山市のような、いわゆる城下町があります。城下町には、もちろん町家が含まれますが、役人や下級武士が集住する武家屋敷など、純粋な町家とは異なる要素が絡んできてややこしいので、城下町の内容には触れません(城下町は難しすぎてギブアップ…)。ご勘弁下さい。

2.和歌山県橋本市の町家


▼さて、和歌山県北部の橋本市の、JR西日本和歌山線/南海電鉄高野線橋本駅の南西から南東にかけての一帯には、かつて古い町家群がありました。「かつてありました」と表現したのは、この町家群の大部分は、21世紀はじめに行われた都市計画工事によって跡形もなく消滅し、地形すらも豹変してしまったからです。

これが江戸時代後期における橋本の町家群。(大日本名所図会刊行会編 1921:pp184-185)

▼さいわい、橋本の町家が解体、消滅する直前に、建築学者の平山育男さんを中心とするグループが町家の外郭、間取りと構造、そして建材までをほぼ悉皆的に踏査・調査し、ドデカい書籍に記録しています(橋本の町と町家の研究会編2002)。
▼橋本の町家は、街道筋に接している町家正面が5~7間(約9~12m)と狭く、形態としては入母屋ないし切妻(長屋も多い)屋根が多かったようです。街道筋の裏側や正面両横は白壁で塗り込められており、これは火災発生時の延焼防止策と考えられ(橋本の住宅密集地はたびたび大火に遭っている)、さきに別ページ『奈良和歌山の農村和式民家(2)屋根の型』で取り上げた奈良盆地の「大和棟」と同じ設計思想によるものです。

▼平山らは、橋本の町家の発展段階を以下の4期に分けています(平山ら 2001)。

①第1期(1700年代):
・接客用の座敷や瓦葺き(本瓦葺き)屋根を設けるなど、町家形式が確立。
本瓦葺きは主に寺院建築で用いられるもの、桟瓦(さんがわら)葺きは葺き土と銅線(針金)を用いて瓦を屋根表面に緊縛するもの(井上編 1927)。

②第2期(1800年代前中期):
・2階を設ける町家が増え(2階は物置が多かったらしい)、瓦が桟瓦葺きに転換。

③第3期(1800年代後期~1900年代初期):
・2階に座敷を設ける町家が出現。

④第4期(大正・昭和):
・応接室が出現するなど多様化。
・2階の座敷が発達し、1階の座敷よりも上格となることもあった。

▼さきにあげた、江戸時代後期における橋本の町家を描いた図を見ると、興味深いことに、道路に面して密集する町家の裏側(内側)にも住居や倉などがびっしり建てられています。管理人は少年期、この住家密集区域に張り巡らされた細道を自転車で駆け回るのが大好きでしたが、この裏側がどうなっていたのかは思い出せません。

昭和初期の省線(現JR西日本)橋本駅周辺。店舗のみが示された地図だが、斜線部が住家密集区域。図の左側が北。(東京交通社編 1937:頁番号なし)

3.奈良県五條市の町家


▼次に、橋本市街のほかに、近年まで町家が比較的多く残存したのが奈良県五條市街です。五條市内の町家の発生は、橋本市街よりも少し古く慶長年間(1596-1615)とされています。
▼『五条市史』と浅野らは、五條市の町家の発展段階を以下の4期に分けています(五条市史調査委員会編 1958,浅野ら 1959①②)。

①第1期(江戸時代初期(17世紀)):
・事例が極めて少なく、傾向に一般性があるかどうかがわからない。
・家主の地域での社会的地位がかなり高い(中世以来の土豪や豪商の系譜を引く)。
・構造的に豪壮であり、建材が太い。
・室の配置は3列5室または6室。
・土間の幅は2.0~3.5間(3.6~6.3m)。
・土間の上に厨子つし。屋根裏部屋のこと)はなく吹き抜け状態であり、屋根裏の構造が丸見え。

慶長12年(1607)に建造されたもので(五條市の栗山宅。奈良県重文)、使用される材が太いことと、厨子(つし)部分がなく吹き抜けであることが特徴。(日本建築協会創立45年記念出版委員会編 1962:p121)

②第2期(18世紀前半―元禄年間(1688-1704)から享保年間(1716-1736)):
・構造規模が縮小し、それに伴い建材が細くなる。
・室の配置は2列(前後2並びとなる)。
・土間の幅は2.0~3.0間(3.6~5.4m)とやや縮小。
・土間の上に厨子はないが、天井を物置として有効利用する傾向が出現。
角屋(かどや)が出現し、裏側に配置。
・前面の庇(ひさし)が母屋の屋根から離れ、二階建ての外観になる傾向が出現。

宝永元年(1704)年に建てられた庄屋の町家で、火災対策のため2階に窓はなく、表側は格子戸からなる。庇が屋根から独立していることが特徴。(日本建築協会創立45年記念出版委員会編 1962:p122)

③第3期(18世紀後半―(明和年間(1764-1772)から寛政年間(1789-1801)):
・室の配置は第2期と同じ。しかし、建屋背面の庇を拡張して室内を広くする傾向が出現(節約令により梁間制限があり、それを逃れる手段だったらしい)。
・土間の幅は2.0~2.5間(3.6~4.5m)(さらに縮小)。
・土間の上を厨子とし、台所土間の上以外は板で覆うことが通例となる。
・土間に下店(しもみせ)を作る傾向が出現。また、これに伴い、店の土間だけ間口を半間広くする食い違い間取りが出現。
・角屋の棟高が低くなって、母屋の軒下に収まるようになる。

厨子(つし)が確立し、物置としている例。この部分が後年、完全な二階部分へと発達する。(五条市史調査委員会編1958:p315)

④第4期(19世紀前半):
・全体として豪壮な家が再現。建材も太くなる。
・室の配置は2列、角屋を出すほかに、庇と取り入れて奥行きに3室となる。
・土間の幅は2.0~4.0間(3.6~7.2m)。
・2階部分が高くなり、厨子を広く活用するようになる。
・土間に下店を作る傾向のほか、女●部屋(「女●」は差別語)や漬物部屋を作るなど、土間を積極的に活用する方向。
・角屋の傾向は第3期と同じ。
・2階前面の軒出しが深くなり、そのため出し桁が目立つようになる。

18世紀末期(第3期~第4期)に建設された町家。2階部分が完全に確立しているが、物置であったと思われる。(五条市史調査委員会編1958:p325)
1階部分よりも2階部分のほうが装飾が豪華になっている例(これは旅館で、2階は客室である)。(五条市史調査委員会編1958:p334)

▼なお、五條市の町家に使用された瓦の変遷については、『五條市史』は、かなり初期から本瓦葺きが普及し、桟瓦葺きになったのは江戸時代後期であると述べています(五条市史調査委員会編 1958)。

五條市街の範囲は非常に広く(斜線部が住家密集区域)、省線和歌山線(現JR西日本和歌山線)のひと駅間にも及ぶ。図の右側が北。(東京交通社編 1937:頁番号なし)

4.町家の設計思想


▼町家は、商店が多いがゆえに道路に面しているのが基本で、しかも密集していることから、田舎の農村和式民家とは異なる設計思想が求められます。▼町家は、両隣に別の町家がギリギリのところまで迫っており、少なくとも左右方向に拡張することができません。また、町家の表側=前面には道路があり、やはり表側にも拡張することができません。このように、町家を数十年、数百年単位で長期間維持し、かつ、さらなる開発を加えていく場合は、四方のうち三方を囲まれているという限界を考慮しなければなりません(下図参照)。
▼三方を包囲された町家の開発余地は、表側ではなく裏側(背面側)しかありません。では、裏側(背面側)に向かって開発していけばよいかというと、そう簡単ではありません。
▼町家の間取りは、基本的には四間取り型(田の字型)と類似したものが多いです。これは、間取りの行と列が増えていくと、採光性の悪い部屋も増えてしまうからです。現代に生きる私たちが忘れがちなのは、近世と近代初期には電気がなかったという事実です。奈良県南部地方や和歌山県北部地方に電気が開通し始めたのは、明治時代後期以降です。
▼町家の裏側(背面側)に向かって開発していく場合に、採光性を意識した一つのアイデアが、さきの五條市町家の例であげた角屋で、四間取り型の町家であれば、裏面(背面側)に1室増やして5室にするのです。つまり、主屋から突出するような部屋を追加してやれば、日当たりが良くなるというわけです。

六間取り+角屋の町家を想定してみました。(管理人が作図したもの)

▼しかし、角屋を一つ建て増したところで、結局はひと部屋増えただけで、それ以上の開発余地はやっぱり期待できません。ではどうしたか?
▼答えは、開発の方向が裏側(背面側)ではなく垂直に向かったのです。それが、さきの五條市町家における厨子(つし)の変化です。もともと、町家の天井は吹き抜けで、骨格がむき出しでした。そこで、吹き抜けの部分を天井板で覆って厨子とし、その場所を物置として使うようになり、さらに後年、厨子の空間が拡張されて、とうとう2階ができたというわけです。
▼町家に限らず、農村和式民家では、もともと屋根裏だったところを無理矢理2階建てにして、台所から急角度の階段をつけている事例がたくさんあります。町家では、主屋の面積拡張ニーズが農村和式民家よりもシビアで、2階建てに進化していったのは必然の流れであったといえるでしょう。

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▼町家は、それが町家であるためには密集していることが大前提で、密集しているからこそ、味わい深い独自の様式を見せます。しかし、その副作用として、密集家屋を網羅する道路が狭くなりがちで、火災時に消防車が入れないという防災上の危惧があります。生活上の安全を極端に志向する現代社会では、密集家屋は受容されにくいでしょう。
▼さらに、地方の個人商店街の機能は事実上壊滅しており、町家の社会経済的な意義はなく、歴史的・文化的意義だけが残りました。町家をはじめとする古民家には、維持管理費がつきものです。
▼和歌山県橋本市橋本の町家とその密集区域は、既に区画整理され、だだっ広い空間に変化し、近世から続いた風景は全て消滅しました。仕方ないですね~

***(つづく)***


文献

●青木義次・藤原学(1994)「町家平面のスキーマグラマー:建築空間分析のためのスキーマグラマーに関する研究その2」『日本建築学会計画系論文集』455、pp119-127.
●浅野清・扇田信・林野全孝・鈴木嘉吉・工藤圭章・青山賢信(1959①)「奈良県五条市町家の編年と建築的変遷(歴史・意匠)」『日本建築学会論文報告集』63、pp601-604.
●浅野清・扇田信・林野全孝・鈴木嘉吉・工藤圭章・青山賢信(1959②)「奈良県五条市町家平面の型(歴史・意匠)」『日本建築学会論文報告集』63、pp605-608.
●大日本名所図会刊行会編(1921)『大日本名所図会.第2輯第9編』大日本名所図会刊行会(引用pp184-185).
●五条市史調査委員会編(1958)『五条市史.下巻』五条市史刊行会(引用p315,p325,p334).
●橋本の町と町家の研究会編(2002)『橋本の町と町家:中心市街地伝統的町並み調査の記録1999-2002』橋本市.
●平山育男・御船達雄・藤川昌樹(2001)「橋本の町家と町並みの形成と展開に関する復原的研究―近世と近代の比較を中心に―」『住総研研究年報』28、pp119-130.
●井上要編(1927)『日本瓦業総覧』日本瓦業総覧刊行会.
●日本建築協会創立45年記念出版委員会編(1962)『ふるさとのすまい:日本民家集』日本建築協会(引用p116,pp121-122).
●大場修(1989)「奈良盆地における町家の発展過程:架構形成の変容を通して」『日本建築学会計画系論文報告集』403、pp133-147.
●太田博太郎ほか編(1982)『図説日本の町並み.第7巻(近畿編)』第一法規出版(引用pp138-139).
●東京交通社編(1937)『大日本職業別明細図』東京交通社(引用頁番号なし).

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