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1年目、泣いてオフィスに逃げ帰った私が、働く意味を見つけて社長になるまでの話

オフィスへ逃げ帰ってきた私は、泣きながら上司に訴えていました。

「もう無理です」

私のキャリアの始まりは、泣き虫からのスタートでした。


ワカルク代表・石川沙絵子へのロング・インタビューシリーズ。ワカルクのルーツでもある石川個人の人生観・仕事観や、ワカルクという会社に込められた想いなどを全6話でご紹介します。

※本インタビューは、社外ライターによる約5か月に渡る取材をもとに執筆/構成を行っています
(インタビュー/執筆:藤森ユウワ)

学友たちが私の就職先を聞いて驚く


「え?沙絵子、人材会社へ就職するの?職種は……って、営業!?」

大学では法学を専攻し、ゼミの同期の多くが法曹や公務員を目指しているなか、どちらかと言えば少数派だった一般企業への就職。

そして、法学とはまったくかけはなれた“営業”という仕事

私の話に驚き、心配そうな目を向けてきた友人の気持ちも分からなくはありません。けれど、私にとってはずっと前から変わらない明確な軸があって選んだ道でした。

「人がよりよく生きて、誰もが働きやすい社会を作りたい」

そのために、人づくり・組織づくりを支援する仕事に就こうと、自分なりの志を持って入社したのが人材会社でした。

それなのに、私は泣きながらオフィスに帰ってきて、上司になだめられていたのです。


涙を流した恐怖の○○研修

営業職の新卒の社員は、OJTとして

  • 1日○○本、営業電話をかける

  • 1日○○件、新規の飛び込み営業をする

といった“キャンペーン”(≒研修)が行われることがあります。

私たちがやったのは、2週間の名刺獲得キャンペーン。求人広告の飛び込み営業をして名刺交換し、もらった枚数を競うのです。上司からげきを飛ばされ、私たちは毎日外回りをしていました。

これが、私にはぜんぜんできませんでした。

今でも新規の営業はどちらかと言えば苦手ですが、今の私に輪をかけて、当時の私はできませんでした。

研修開始から1週間がたったころ、同期8人のなかで“私だけ”が途中で挫折し、オフィスへ帰ってきてしまいました。

「落ち着け、あと30分だけでいいからがんばってこい」となだめる上司の言葉をさえぎるように、

「もう無理です、もう行けません」

と私は涙ながらに訴えていました。


苦手な飛び込み営業を「やらなくてもいい」ように、がんばった

2週間の名刺獲得キャンペーンを途中で挫折しかけた私を助けてくれたのは、学生時代にアルバイトをしていたお店の店長さんでした。

求人広告を発注してくれて、その受注を処理するために私は1日だけキャンペーンに参加しなくて済んだのです。

私たち新人に課せられた目標は“名刺獲得”なので、本来のミッションは達成できていないのですが、「入社したての新人が、名刺獲得はできないけど受注を取った」と、ちょっとした話題になりました。それで、気持ちがだいぶ救われたのです。

そのときに気が付きました。

私は飛び込み営業のような「当たるか分からない鉄砲を打ちまくる」のは苦手だけど、「狙いを定めた1社を受注するためにコツコツと動く」のは得意なのかもしれない。

それに、成果を出せてさえいれば、苦手な飛び込み営業をしなくても済むかもしれない、と。

飛び込み営業が苦手なら、それをせずに成果が出せる方法でがんばればいいんじゃないか。

そう気が付いてから、「求人広告を出してくれそうな業界や企業はどこなんだろう」と、一生懸命考え自分なりに仮説を立てて、見込みのある企業に狙いを絞って営業するようになりました。


何かに「とがる」ことで、○○と言えばアイツだ、と思われるようになった

半年が過ぎ、少しずつ変化が生まれてきました。ITエンジニアの求人広告を1、2件受注したのです。

2001年の「ITバブル崩壊」の影響も一服してきて、IT化に力を入れている企業はどんどん増えていました。それで、

「もしかしたらこの職種は今後求人が伸びるかも?」

と思い、他社の求人媒体に広告を出している会社に電話をかけたら、アポがすんなり取れたんです。ITエンジニア不足で、どの企業も喉から手が出るほど採用をしたかったのでしょう。

当時はまだ、世の中に「ITに強い求人媒体のセールス」がそれほどおらず、IT系のことが分かったうえで求人の話ができることを、とても重宝していただけました。

「これだ!」と思い、そこからひたすら営業先を“ITエンジニア採用”に絞って提案を続けました。

少しずつ受注が伸びてきて、そのうち社内でも「IT系だったらアイツが詳しいぞ」と認知されるようになり、自分で営業していないのに仕事が入ってくることもありました。


成果を出せば性別も年齢も関係なく評価されるから、がんばった

必死に走り回ってなんとか売上を作っている1年目の自分。週に100万円以上の売上を上げている2年目の先輩たち。

たった1年でこれほど大きな違いがある。

最初は、そんな先輩たちを「どこか別の世界の人たち」のように感じていましたが、少しずつ仕事に慣れてきて、「もしかしたら私も、1年がんばれば、ああなれるのかもしれない」と思えるようになってきました。

でも、実際は2年目になったからといって、勝手に売上が増えているわけではありません。数字が大きいということは、それだけ仕事が難しいということでもあります。

扱う業種や職種が増えれば、覚えなければいけない知識も増えます。しかし、2年目の私にそこまで多くの引き出しはありません。

引き出しが少ない分は仕事量でカバーするしかありません。お客様からのお問い合わせにはちゃんとお答えしたかったので、

過去の案件を調べ
他社の事例を調査し
施策の効果を分析し

毎日、朝から晩まで仕事漬けの日々を送っていました。今になって、当時はよく体を壊さなかったなと思います。丈夫な体に生んでくれた母に感謝しています。

営業の世界はたしかに厳しさもありますが、裏を返せば、

成果を出していれば、男も女も年齢も関係なく平等に評価される

という世界でもあります。私がいた会社は求人広告の代理店だったのですが、本部から出向してきている人たちも多くいて、

スーパー営業マン
スーパー営業ウーマン

の人たちが本当に何人もいました。活躍している女性もとても多くて、その人たちを目標にして私もがんばりました。


少しずつ広がる周囲との「時差」

当時は、「子どもができたら、女性が営業職を続けるのは難しい」という風潮が、まだ社会のなかに色濃く残っていました。

あんなに成績の良かった先輩たちも、ほとんどの人が結婚や出産を機に退職していきます。入社から5〜6年たった先輩方は、次々にいなくなっていきました。

私も、就職してからひた走ってきた数年の間にパートナーと出会い、結婚し、子どもを授かっていました。

ただ、ちょうど私の世代くらいから「産休・育休を取って仕事に復帰する」という事例が社内でチラホラ出始めていました。

当時の上司も理解のある方だったので、私も半年の育休のあと長女を保育園に預けて復帰することにしました。

復帰後は時短勤務だったので、以前のように長時間は働けなくなりました。迅速に対応する必要がある営業の最前線を離れて、裏方からみんなをサポートしたり、営業企画などの“ミドルオフィス”を担当したりする仕事が多くなりました。

私が周囲との“時差”を感じ始めたのは、その頃です。

0歳児保育に預けた長女のお迎えのために、まだ日が明るい夕方4時に会社を出る私。
日が暮れるころに帰社し、夜遅くまで会議や提案資料づくりに勤しむ同僚たち。

私が会社を出た後に開かれる会議も、もちろんたくさんありました。

「Googleドキュメントで議事録を作って、Slackで共有する」…なんてことができる時代はまだ遠い未来の話です。口頭だけで情報が伝えられることも多くて、「会議で何が話し合われたのか分からない」ということもありました。

もちろん、限られた時間の中で最大限の成果が出せるようがんばっていました。でも、フルタイムで働いている人たちとはどうしても“時差”が生まれてしまい、私だけが置いて行かれているような距離感を感じていました。


気付いたらいつの間にか諦めムードに変わっていた

でも、そんな状況に対してどこかで諦めている自分もいたのです。

「まぁ、こんなもんだよね」と。

なぜなら、世間的には結婚や出産で家庭に入ることが普通だと思われているし、実際に多くの先輩がそうしているのを私も見てきたのですから。そして、諦めの気持ちとともに、

保育園にひと月何万円も払ってまで働く意味があるのか
私にとって働くことの意味はなんなのか

という思いが湧いてきました。


給与や福利厚生ではなく、自分の思いで働いている人と出会った

いっそのこと仕事を辞めてしまおうか、などと考え悶々としていたそんなときに、後輩が

「沙絵子さん、この人の記事、沙絵子さんがよく話していることと似ていて面白いですよ」

と、ある記事を紹介してくれました。それは、NPO法人を立ち上げたある女性の記事でした。

「ライフイベントを経ても、女性が生き生きと働き続けられるように」

今となっては当たり前に思えるこの考え方も、2011年の当時はまだ、世の中に浸透しきっていない時代でした。そんな中でも

「仕事と結婚・子育てが両立できる企業が無いなら、創ればいい」

という信念を持って行動している彼女の姿に、私は衝撃を受けました。

私と同じような考えを持ち、同じようなキャリアを歩んでいて、でも、今の私とは違い実際に行動を起こしている人がいる。周囲との時差を感じて悶々としていたけれど、

「悪くない今の就業環境」

安住することを選んでいたのは、他ならない自分自身ではないかと気付いたのです。

私はいてもたってもいられず、彼女に会いたい一心で「私は人材会社で中小企業の支援をしているから、きっと何かのお手伝いができます」とメールを送っていました。

この出会いがきっかけとなり、

「私も、やりたいことのために行動をおこそう」

と思うようになりました。そして、そのためにいくつかの選択肢を検討した結果、私は新卒から勤めていた会社から、外の世界へ出てみようと決めました。


祖母と母の背中が語っていた「働くことの意味」

私は「働くこと」に対する自分の原体験を思い出していました。

築地で焼き鳥屋を営み、“定年”も“老後”もなく、80歳になっても90歳になっても自分で稼ぎ、そのお金で趣味を楽しんでいた祖母

祖母とともにお店で働きながら、私たち3人姉妹を育てた

そんな二人の女性の背中を見て育ってきたから、私にとっては「結婚しても子どもができても働き続けること」はごく自然な光景でした。

その一方で、現代の日本社会で働く女性たちを見ると、結婚や出産で「仕事を辞める」という選択肢を採らざるを得ない人がまだまだたくさんいます。

だから私は、「人がよりよく生きて、誰もが働きやすい社会を作りたい」という志を立てました。

そして、その思いが『ワカルク』という会社の起業へとつながったのです。

***

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

「働く意味や、目的が見つからなくて悩んでいる」

という方にとって、もし、このnoteがなにか少しでもお役に立てていたら嬉しいです。


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