「筆者に聞きたいことはありますか」と問うてほしかった。
小中学生の頃、国語という科目は得意でした。
『当てはまる言葉を入れなさい』も『あなたの考えを書きなさい』も、特に苦労することなく回答できる問いでした。
ただ、苦労はしなかったけれど、好きではない問いがありました。
『筆者の考えとして、最もふさわしいものを選びなさい』
説明文であれ評論文であれ、文章には、筆者の考えというものが書いてあります。
引用ばかりのテキストなんて、教科書の中にでてくる文章にはありません。
意志のある筆者が、手を尽くして『自分の考え』を述べるのです。
論の構成、表現方法はいくつもあります。読者は誰を想定しているのか、話題はどのようなものなのかによって、書き方はさまざまです。
それでも筆者の工夫によって『自分の考えを述べる』という目的は必ず果たされます。
だから先に挙げた問いは、至極当然のものなのかもしれません。
筆者が手を尽くして構成した文章をしっかりと読み、その考えを理解すること。
それが“読む力がある”ということだ、と。
悪い奴ランキング、わからなかった違和感の正体
高校生の時、
おもしろい現代文の先生がいました。
校門の横でいつもたばこを吸って、生徒がからかうと「パトロールだ、パトロール」と不機嫌そうに追い払うおっちゃんです。
いつも不機嫌そうだけれど、チェシャ猫のように不敵な笑みを浮かべることも多い、不思議な先生でした。
仲の良い先生と連れだって(つるんで)一服している姿は、とても国語の先生には見えなかったことを覚えています。
でも、その先生の現代文の授業は印象に残っています。
あれは森鴎外の『舞姫』でした。
君たちは、この物語の中で誰がいちばん悪い奴だと思う?
単元も終盤にさしかかったところ、先生は唐突に言いました。
『悪い奴、って。そんな単純な話でいいのか…?』
私は心配になりました。この先生、前から思ってたけどやっぱりおかしいんじゃないか。
飄々としてこだわりがないように見えて実はカリスマ教師、みたいな体裁で本当はただの変な先生なのでは…と不安がよぎります。
食いつく生徒も関心がなさそうな生徒もさまざまいる雰囲気の中、先生は続けます。
よし、今から自分が思う『悪い奴ランキング』をつくれ!
たしか2コマかけて、クラス全員の『舞姫:悪い奴ランキング』をシェアした気がします。もう内容は覚えていません。
私は大学で教員養成課程に進み、小学校~高校までの国語科を教える免許を取りました。そのプロセスで、国語授業には様々な問いの立て方があるということを学びました。
あの『悪い奴ランキング』という問いは、もしかしたら定番だったのかもしれません。当時高校生で、授業を受ける立場としてしかものを考えていなかった私は、先生の真意をくみ取ることができませんでした。
大学で研究授業を見たりワークショップに参加するうち、小中学校の頃に抱いていた『筆者の考えを選びなさい』への違和感、好きじゃないという感情は徐々にほどけていったように思います。
けれど、自分はどんな問いを求めていたのか?
それはまだわからないままでした。
noteで出会った人も、自分も、”筆者”だった。
ここ9ヶ月くらい、noteを読んだり書いたりしています。
もともと紙の本が好きで、電子書籍を読んだりブログを読んだりすることはほぼありません。
でもnoteは、なぜか読みたくなります。
インターネットの海に漂っている文章やイラスト。目新しいものではないはずなのに、なぜでしょうか。
最近思うのは、紙の本で体験していた読書感覚と、noteで体験するものが似ているからということです。
紙の本を読むとき、私は“読み手”でした。
ちがう言い方をするならば、焚き火に集まって語り手を囲むような存在でした。
noteを読むときも、似たようなものを感じます。情報を植え付けられるでなく、広告を見せられるでもない。消費者ではない。お得なものを探し求めたり、何かと引き替えに何かを与えられるための存在ではない。
もちろん、note以外のネットの海を否定する気はありません。私はnoteが好きというだけです。わめいたり押しくらまんじゅうをすることなく、集まりたい人が集まって、ただ焚き火を囲むようなその空気が好きなのです。
もうひとつ、気づいたことがあります。それは、noteで出会ったたくさんの人たちも、”筆者”だということです。
何を当たり前のことを…と思われるかもしれません。何かを書いている以上、筆者と呼ばれるのは当然です。
でも、私は思いました。教科書に載る文章を書く人たちも、noteを書く人たちも、等しく”筆者”なのだと。
やっと違和感の正体がわかった気がします。私が欲しかった『問い』が。
筆者の考えなんて、わからないから
私は、noteでぽつぽつ文章を書いています。本当にぽつぽつで、小雨のような言葉たちです。
インパクトがあるかというとそうではなく、人の心に何かを残せるのなんて、あるとしてもずっと先のことでしょう。
それでも、読んでくれる人がいます。好きだ、と言ってくれる人もいます。書くことを応援してくれる人までいます。
「私はnoteで”筆者”になったのだ」と思いたいです。たくさんいるnoteクリエイターの中の1人でしかありませんが、そこはこっそり名乗っておこうと思います。
そして今思うのは、「筆者の考えなんて、完全にはわからない」ということ。
正直に書いたつもりでも、時間をかけてきちんと丁寧に書いたつもりでも、私は私の考えが100%はわかりません。
こんなことを書くと無責任なのかもしれませんが、自分のことも完全に理解しきってはいない筆者です。
きっと教科書に載るような文章を書いた人は、自信をもって『これが自分の考えです』と世に送り出したことでしょう。とても尊敬します。
でも自分がぽつぽつとnoteを書く時、ふと思うのです。
自分の考えがわからない筆者も、
いたのではないか。
テストでは当然のように『筆者の考えを選びなさい』と問われます。文章にペンで印をつけたり、線で囲んだりしてきた読み手は、ふんふんと頷きながら、それを探します。
あったあった、ここが『筆者の考え』ね。
それでいいのでしょうか。そこに、本当に答えがあるのでしょうか。
筆者の考えは当然文章のなかにある。だから、答えは選べる。きっと間違ってはいないのでしょう。構成を工夫して、効果的に自分の考えを述べるために書かれた文章ですから。考えを理解してもらうために書いたのですから。
でも、私は思います。書けなかったことや、消してしまったことにも、筆者の考えは滲んでいたはずだと。
理解してもらえそうにないことや、わかりにくいことはきっとあって、『自分の考え』を差し出すためにそれらは場所を譲ったのでしょう。
だから、完成した文章が筆者にとって100%の『筆者の考え』だとは、私には言い切れないのです。
『以下の選択肢から選びなさい』なんて、そんなことは言えないのです。
欲しかった『問い』
私にとって筆者という言葉は、以前はただの単語でした。“起床”とか“現実”と同じ種類の言葉です。
でも今は、少し違う存在感のある言葉だと感じています。
何かを伝えようとしているけれど、まだ100%の姿ではない存在。文字となって、文章となって語ってくれるけれど、まだ未知の可能性がある存在。
こんなふうにとらえるとしたら、私が欲しい問いは1つです。
『筆者に聞きたいことはありますか?』
何でこのことに興味を持ったんですか?好きな人間のタイプはどんなかんじですか?苦手なものはありますか?どうして冒頭をこの話で書き始めたんですか?
なんでも良いと思います。相手の文章に興味をもったのであれば、野次馬根性じゃなく自然と聞きたいことが生まれてくるのではないでしょうか。
文章だけ見て、構成や表現だけ見て、人を見ない。”筆者”を見ない。そんな読み手には、なりたくないと思うのです。
逆に言えば、仮に文章の内容が頭に入らなくても、その筆者に興味を持っていたい。「小難しい印象だけど、これを書いた人はどんな人?」「普段からこの話ばかり考えているのかな。それとも、ちがう趣味もあるのかな」。
人に興味を持っていたい、と思うのです。
目指すのは、よい囲み手を呼ぶ文章
これからもきっと本やnote、記事を読みます。色々な人に出会うと思います。その中で、心がけようと思うことがあります。
書かなかった思いを、想像すること。
理解したふりを、しないこと。
私が思うに、いい読み手とは、読解力がある人ではありません。筆者の考え当てゲームの正答率が高い人でもありません。
目の前の結果としての文章を受けとめながらも、そこに書かなかった何かがあるという可能性や、自分が理解できなかったことに目を配る人です。
必要があれば、筆者に聞ける人です。
同じ時代を生きている人であれば、どうにかして直接聞くことができます。そしてそのチャンスは、限られた時間のなかにあります。
だから怖れずにいたいのです。書くことも、読むことも。
こんなにがんばって書いたけれど、いいものにならなかった。誰からも良いと言ってもらえない。
そう落ち込むこともあると思います。
でも、もしかしたら『問い』をくれる人がいるかもしれないから。
ちょっと読んだのですが…と、私という筆者に問いかけてくれる人がいるかもしれないから。
問い待ち、というわけではないですが、自分だけで文章を完成させようと思わないでいいのかな、という感覚です。
筆者がいて、読み手がいる。”囲み手”でもいいかもしれません。
あたたかい焚き火を囲みながら、自然と問いの生まれるようなものを書いていきたいです。
”読む”人へ伝えたいこと
最近、学生の皆さんを見かけるとまぶしいです。
これから彼らが出会うたくさんの筆者は、もう雲の上の人物ではないだろうと思います。同じ時代の空気を吸い、電車で隣り合った席に座っている人も“筆者”かもしれないからです。
少し前の時代や遠い時代の人も、今書いている人たちと同じように悩んだり、もがいたりして書いてきたと思います。
興味を持つのは、今を生きる人の文章からでも、遠い昔を生きた人の書いた文章からでもいい。
どちらでもいいけれど、読む者の答えは選択肢からではなく、『問い』から生まれるのだということを伝えたいです。
読んだ人と書いた人。横に並んだり、輪になったりして、問いを差し出し合える関係が増えていったら、それはきっと、とても豊かな世界だなと感じています。
読むことも書くことも、もっともっと楽しくなりますように。
文章を通して、人と人がもっともっと愛しあえますように。
そんな願いを込めて、今日も私は書いています。
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