見出し画像

隠岐の海に響く歌声 ~和歌界の帝王、後鳥羽院の御製3選~

島根県石見地方に生まれ、隠岐の海士あま町にも3度上陸しながらそこに暮らした後鳥羽院とはニアミスというかなんというか、きちんと邂逅しなかった梶間和歌が、
その後紆余曲折を経て、後鳥羽院の牽引した新古今時代の和歌に頭を殴られ、和歌の道に入った、

というのはいま振り返ると興味深いことだなと思います。


日本で唯一の和歌の大会、隠岐後鳥羽院大賞にも深い縁のある現在、
こちら、簡単な記事にはなりますが、
新古今時代の帝王、後鳥羽院の御製あまたあるなかから2024年時点の梶間和歌の目で3首を選び、ご紹介いたします。


歌人としての後鳥羽院がお好きな方にはもちろん、

「歴史上の後鳥羽院の位置づけについては詳しいが、歌についてはあまり」「でも興味がある」という方、

「『後』の付く上皇や天皇ってなんか存在感あるよね!!! 」という方
(存在感のない「後」持ち上皇もたくさんいるけどね!!! あと「後」の付かない白河院の存在感はハンパないし、私は当時の京の情勢に鑑み後醍醐天皇は「後醍醐院」と呼びたい派)、

島根県や隠岐、海士町にゆかりのある方、興味のある方、

など、それぞれお楽しみいただけたらと思います。




後鳥羽院御製3選

一口に「後鳥羽院の御製から3首選ぼう」と言っても、勅撰集入集にっしゅう歌だけでも258首、それ以外も含めると……大正4年の『歴代御製集』によると、後鳥羽院御製は2035首ですって?
……これらすべてを把握したうえで吟味して3首選ぶとなると、年単位の企画になってしまいます。

ということで、すでに私の愛誦しているなかから選ばせてくださいませ。
どうしても偏りはありますが、そこはほかの筆者の記事や本を併せてお楽しみいただく形でご容赦いただけたらと思います。

なお、それぞれの歌の解説に添えたブログ記事は数年前の執筆ということで、現在以上につたない部分もございます。
あくまで補助的なものとして、「梶間もこのころは青かったのだなあ」などとご笑覧いただけましたら幸いです。


さて、まず1首目は……


みよし野の

みよし野の高嶺のさくら散りにけり嵐もしろき春のあけぼの

新古今和歌集春下133

見よ。あの美しく尊い吉野山の高嶺の桜が散ってしまったのだ……。
吹きすさぶ春の嵐も落花で真っ白な、曙の空だけでなく嵐そのものが白いと表現すべき、嵐も白き・・・・春の曙よ。(訳:梶間和歌)


建永二年(1207年)、最勝四天王院和歌(最勝四天王院障子和歌)。
日本各地の歌枕(特定のイメージを想起させる地名)46箇所の描かれた障子(現在のふすま)に、その絵にふさわしい46首の歌を10名の歌人たちが詠み競った、
そのなかから各歌枕に1首ずつ、計46首が選ばれ、障子和歌として書き入れられたとのこと。

花の名所吉野の障子和歌として選ばれたのは、企画者である後鳥羽院その人のこの歌でした。


「春の曙」という結句を後鳥羽院は好み、この結句を持つ和歌をいくつも詠んでいますが、そのなかでもこの「嵐もしろき」は群を抜いて目を惹くものです。
(ここでいう「嵐」とは強風のこと。現代語の、雨風を伴う「嵐」のイメージで読まないでください)

構造としては三句を活用語の終止形で一度切り、それがどのような様子であるかを下の句で改めて述べ結句を体言で収める、新古今時代によく見られる安定的なものです。
安定的とはすなわち退屈か、というとそんなことはなく、構造に安定感があるからこそ歌人は安心して、必要な箇所でのびのび遊んだり、冒険を試みたりすることができるわけで。

さて、その冒険ですが。
現代人の目では気づきにくいかと思いますが、四句の「嵐もしろき」というこの色彩表現は、長い和歌の伝統の王道から外れたもの。

和歌における色彩表現は「青柳」「白菊」「白波」など体言を修飾する接頭辞として使われるのが通例で、「柳青し」「波白し」などの表現は「素人臭い」と退けられたはずです。
その珍しい色彩表現が新古今時代にいくつか試みられ、この歌のように勅撰集に入集した例もあるものの、これが新たな伝統となることはないまま本格的な中世となり、
その後は、伝統に囚われず清新な歌を詠んだ京極派という和歌グループで例外的にこの特異な色彩表現が試みられました。あくまで例外的なものです。

京極派の精緻な観察を背景とする繊細な叙景歌における「垣根も白く」「萩の葉白き」などとは異なり、抽象度、観念性のかなり高い「嵐もしろき」ですが、
これはこの帝王のスケールの大きさをよく表しており、かつ個性的な表現として評価すべきものかと。
ただの大雑把ではない説得力が感じられます。


また、この不気味ささえ伴う幻想的な景を詠んだ歌の頭の音が「見よ」であること、
これは仮に後鳥羽院が無意識に選んだものだとしても、日本語で詩歌を愛誦する者として心に留めておきたいですね。彼の選択が無意識か意識的かわかりませんが。
偶然のものを含む音の類似や重複、響き合い、こうしたものを無視して、新古今時代の複雑でありながらはっと胸を打つ秀歌の数々を味わうことは、難しいでしょう。
味わった気になることは、どんな姿勢の誰にでもできるのですが。


野原より

野原より露のゆかりをたづね来てわが衣手ころもでに秋かぜぞ吹く

新古今和歌集秋下471

野原より、野の露のゆかりを訪ねて、私のもとに、私の袖に、秋風が吹くよ。
露に、そして涙にしとどに濡れた私の袖に、露そして涙のゆかりであり原因である何かを、秋風は訪ねて来たのだろう。(訳:梶間和歌)


元久元年(1204年)賀茂上社三十首御会。

本歌としては

袖ぬるる露のゆかりと思ふにもなほうとまれぬやまとなでしこ

『源氏物語』「紅葉賀」藤壺

が挙げられますし、丸谷才一は『古今集』の光孝天皇御製「わが衣手に雪はふりつつ」や『拾遺集』詠み人知らず「秋の野の花のいろいろ」にも言及しています。


この歌は季節の歌ということで、本歌の恋の悩みを必ずしもはっきりと読み取らなければならないわけではない。
しかし本歌が許されぬ恋に懊悩する藤壺の詠であること、また伝統的な「露=涙」「秋風=飽き風」の使い方はきちんと踏まえ、
涙がちになる秋の憂愁の奥に、恋人に飽きられて苦しむ女の姿の立ち上がるのを慎ましく受け取っておけばよいかと思います。

季節の歌を詠みながらそこはかとない恋の風情を配置するのは新古今時代の、マナーではありませんが、ひとつの美学のようなもので、
その恋の風情を読み取れないのは読者の力量不足ということになりますが、
だからといって「これは恋を詠んだ歌だ! 」とするのも曲解。適切な受け取り方をする筋肉を育ててゆきたいですね。
“適切”の答えはこの世のほかのもの、私も永遠にその訓練の途上におりますが、永遠にわからないものだからといってその努力をする必要はない、その努力は無駄だ、ということにはならないでしょう。


この歌の魅力については丸谷才一の指摘に譲るところが多いですが、何をいても初句の「野原」の語は異常です。

これを表す歌語としては「野」や「野辺」というものがあり、文脈によっては「野中」も使われるでしょうか、
なんにせよ「野原」という語を和歌で見掛けることはほとんどありません。
いちおう丸谷才一の言及に丸乗っかりせず自分でも『新編国歌大観』を調べましたが、
「のはら」という語で始まる句を持つ歌で『新古今集』より前のものは『拾遺集』に1首、『金葉集』に1首。丸谷の言うとおりでした。

もともと歌語とか雅語とかいうものでなかった「野原」の語が、新古今時代に頻繁に使われるようになったようで、
その後の時代の勅撰集にはこの語で始まる句を持つ歌がいくつも収められているのが確認されます。

新古今時代は、その前の九条家歌壇の活発だったころを含め、従来の和歌で取りこぼされてきた歌語や歌材が積極的に開拓された時代です。
なかにはその一時代のみ流行した「橋姫」のようなものもありますが、
例えば、従来あまり見向きもされなかった冬の夜空の美しさを詠むことは、新古今時代以降も継承されています。
「野原」に関しては、この時代に「野」「野辺」ほどの格式高い語に昇格したとまでは言えなそうですが、少なくとも新古今時代以降「歌に用いるものではない」という扱いではなくなったようですね。


「野原」の試用は、『源氏物語』をはじめとした古典回帰の気風も合わせて影響してのことだろうと想像されます。

「野原」の語は『源氏物語』「若菜上」に

霜がれわたる野はらのままに、馬車の行きかよふおとしげくひびきたり。

と用いられています。探せばほかにもあるかしら。

新古今時代の少し前から『源氏物語』や『伊勢物語』など、当時の歌詠みにとっての「古典」が再評価され、
それらに詠まれた和歌やそれらの一場面を踏まえた本歌・本説ほんぜつ取りがなされたり、それらに用いられていながら歌語ではなかった語を和歌に詠み込んだり、といったことが意欲的になされてきました。

本歌取りをはじめとした数々の和歌技巧が磨かれ、新古今時代には、31音の制約の中で62音分、93音分……と何倍もの情報量を詠み込むことが可能になります。
その読み解きには読者側の豊かな教養が必須となるので、新古今時代の和歌が「小難しくてヤダ」と敬遠されるのもわからないではない……が、それは私たちの教養不足、努力不足に過ぎない。
和歌側、またそれを詠んだ作者側の問題ではない、ということは謙虚に受け止めていたいものです。
31音で31音分の情報を伝えるのみの、よく言えば素朴、悪く言えば幼稚な歌を「意味がわかったぞ。ああ、和歌っていいなあ」と楽しむ自由ももちろんありますが、私はそうした歌にもそうした読者にも魅力を感じないタイプです。

おっと、話が横道に逸れましたね……。


そうした流れのなかで「野原」を句頭に持つ歌も詠まれるようになるわけですが、
後鳥羽院のこの歌のすごさはその「野原」を句頭どころか歌の最初に置いたところです。

「えっ。そんなことまでする!? 」という感じ。

しかし、そのぎょっとするような始まり方をしたこの歌はその後の「露のゆかり」「たづね来て」「衣手」「秋かぜぞ吹く」といった、和歌表現としてじゅうぶん馴染んだ語に受け止められ、安全なところに着地している。
冒険を冒険で終わらせずきちんと作品として完成度高く仕上げている力量とセンスに頭が下がります。


「たづね来て」と三句で少し呼吸を置きますが句切れはなく、初句から結句まで、構造のうえでも韻律や声調のうえでも滞るところがない。
これも、無情に吹き寄り涙を誘う秋風の滑らかな動きと連動している、と読んでよいでしょう。

新古今和歌の意味内容のうえでの複雑さ、重層性は言うまでもありませんが、
そのなかでも特に優れた歌とは、意味と構造、意味と韻律が矛盾なく嚙み合わさっているものである、と指摘することができます。


あやめふく

あやめふくかやが軒端に風過ぎてしどろに落つる村雨の露

玉葉和歌集夏345

端午の節句に菖蒲しょうぶの葉を挿した茅葺かやぶきの粗末な軒端に風が吹き過ぎて、
軒に溜まっていた雨水が露となりばらばらと、とりとめもなくこぼれ落ちてくる。
先ごろ降り、去って行った村雨の雨水が、風に誘われ、いま露となって。(訳:梶間和歌)


「後鳥羽院遠島百首」中の一首。
「後鳥羽院遠島百首」は、「後鳥羽院御集」の成立した延応元年(1239)以後の成立か。少なくとも承久の乱(承久三年(1221年))以降のことで、現在の島根県隠岐郡海士町に流された後鳥羽院が現地で詠んだ百首です。

基本的に題詠である前提の百首歌の形式を取っていますので、
「後鳥羽院が隠岐の島民の粗末なあばら家の様子を身近に見て詠んだのだなあ」
と解釈してしまうと「題詠とはそういうものではない」「現代人の感覚で読むな」と両断されてしまいますが、
身近に見聞きした生活の様子が歌に影響する部分があったかもしれない、あっただろうな、ぐらいの受け止め方ならば許されるかと思います。


時間の経過や因果関係を示す「て」で上下句をつなぎ、結句を体言で止めるこの形は、新古今時代の約百年後に活躍した京極派の好んだもので、
実際この歌は京極派による初の勅撰和歌集『玉葉和歌集』に入集しています。
余計な解釈を排した叙景的な詠み方も京極派歌人自身の試みた詠み方に近く、『玉葉集』入集もむべなるかなという印象です。


「しどろに」の濁音とら行音の連なりで「ばらっ、ばららっ……」という軒の雨水の統一されない音を連想させるところ、これが見どころでしょうか。
「しどろに」以外にも「のき」「すて」と濁音が用いられながら多すぎないバランス、これも心地よいですね。

もともと村雨の降っていた最中にはばらばらと音がしていたでしょうが、それも去り、基本的には静かな景であったはず、
そこに「風過ぎ」たことで、いったん収まったはずの雨音に似た音が立つ。軒に溜まっていた雨水が粒となりばら、ばらと落ちる音がする。


この「露」はさすがに「涙」として読む必要もないでしょう。
丁寧な叙景を経ると、このように何でもない雨上がりの軒端の様子も感動を生むのだ、という好例です。
ことさらにドラマティックな題材を選び自己顕示してやまない現代短歌の一部の歌人の姿勢の対極に、例えばこの歌を詠んだ後鳥羽院がおり、この歌の姿勢と相通ずる試みをした京極派がいたわけですね。

「この歌の感動ポイントがわからない。ただ雨上がりの風に雨水が落ちただけではないか」という方は、感受性の窓が少々曇っているかもしれませんが、
そうした方の場合は、ドラマティックに自己顕示する現代短歌のほうがお好みに適うのかもしれません。


なお、下に引用したブログ記事では花菖蒲はなしょうぶ菖蒲あやめの花の画像が引いてありますが、
この歌の「あやめ」は端午の節句に魔除けとして葉を屋根にく、葉の香気を愛でる現在の菖蒲しょうぶの葉のことであり、画像も本来は菖蒲しょうぶの葉を添付すべきものです。

ブログ記事の執筆が2020年、アヤメもショウブもきちんと理解できていなかったころのミスとして、ご容赦いただけましたら幸いです。


いかがだったでしょうか。

広く人口に膾炙した「新島守よ」や「人もをし人もうらめし」のほうは、それらに言及した記事も多く、探せばすぐに出てきますでしょう。
かといって「桜わけいるありあけの月」「まだよひの月待つとても」「桜続きの山の下道」あたりを熱弁すると「し、知らない歌……」と取り残された気持ちになる方が多いかもしれません。

自分の好みと知名度と、バランスを取りながら3首選び、ご紹介しました。
学者でも何でもない、いち後鳥羽院愛好者としての解説に過ぎませんが、こちらがあなたの後鳥羽院ワールドを深めるお手伝いになりましたら幸いです。

その後鳥羽院を冠した日本で唯一の和歌の大会、隠岐後鳥羽院大賞和歌部門への応募の経緯その他、また改めて綴って参りますね。
マガジンをフォローのうえ、更新をお待ちくださいませ。

最後までお読みいただきありがとうございました。


マガジンをフォローする

梶間和歌の出身地島根県とゆかりの深い隠岐後鳥羽院大賞和歌部門への応募経緯や、令和5年分の大会結果、そしてその後……noteのマガジンとして連載して参ります。
マガジンをフォローいただきますと、更新時に通知が行きます。こちらのフォローもよろしくお願いいたします。


和歌活動を応援する

梶間和歌がつつがなく和歌創作、勉強、発信を続けるため、余裕のあります方にお気持ちを分けていただけますと、
私はもちろん喜びますし、それは日本や世界の未来のためにも喜ばしいことであろうと確信しております。

「この無茶苦茶な生き方を見ていると勇気がもらえる」
「こういうまっすぐな人が健康に安全に生きられる未来って希望がある」
なんて思ってくださいます方で、余裕のあります方に、ぜひともご支援をお願いしたく存じます。


noteでのサポート、その他様々な形で読者の皆様にご支援いただき、こんにちの梶間和歌があります。ありがとうございます。

特にこのたび令和5年の隠岐後鳥羽院大賞和歌部門で古事記編纂一三〇〇年記念大賞を受賞し、表彰式を含む大会のツアーに申し込みましたが、こちらのツアー代金(9万円弱)は生活費と別に工面することになります。
お気持ちとお財布事情の許します方に、ぜひともご支援を頂けましたら幸いです。

このツアーの様子はこのマガジンで連載して参ります。どうぞお楽しみに。


今後とも、それぞれの領分において世界を美しくしてゆく営みを、楽しんで参りましょう。


この記事を書いた人

フォローはこちらから


応援ありがとうございます。頂いたサポートは、書籍代等、より充実した創作や勉強のために使わせていただきます!