島根と益田と隠岐と和歌
あれは私、梶間和歌の大学4年次、ゼミの卒業旅行を控え、その冊子をキャッキャウフフ作っていた時のこと。
島根県の大学に在学していた私たちは、歴史的におもしろそうな観光地を巡る旅行を企画していました。
ある日、工程表を担当した広島出身の仲間がドラフトを皆に共有。
そこには次のように書いてあったのです。
日ごろ(ネタとして)犬猿の仲と言われていた島根県出雲市出身のゼミ仲間と、島根県石見地方出身の私。
出雲と石見のあいだには太平洋戦争、いやそれ以前でしょうか、歴史的にさかのぼる感情的なしこりがあると言われるのですが、
我々はその瞬間手を結び、広島出身の彼に詰め寄っていました。
「「おい、広島県民。どういうつもりだ。津和野町は島根県です!!! 」」
陸の孤島にすくすくと
もはやデータが古すぎるので現在裏を取ることができず、もしガセネタだったとしたら申し訳ないのですが、
私が学生のころ、東京(羽田空港? それとも東京駅? )から公共交通機関を使って辿り着くのに最も時間の掛かる市は島根県江津市だ、と言われていました。
沖縄? 八丈島?
そちらには飛行機が飛ぶじゃない。
「江津市にはJRの駅があるのに」?
そこに辿り着くまでをあなたは経験したことがあるだろうか? 乗り換えミスもしていないのに次の電車を1時間半待つということを、その人生で経験したことがあるだろうか?
おっと、東京暮らしに慣れてうっかり「電車」と書いてしまいましたが、あのあたりに電車は通っておりません。汽車です。ディーゼルです。さすがに石炭は使っていないわ(よく間違われる。
そんな、日本一アクセスしにくい(らしい)江津市や、山口県と勘違いされがちな西の小京都津和野町、(ゼミ内で)常に広島に併合されそうになっていた旧瑞穂町などを有する島根県に梶間は生まれ育ちました。
実家の最寄りの空港は「萩・石見空港」です。
……その「萩」どっから持ってきたんじゃ。しかも隣県の地名「萩」が当該地名「石見」の前に来るんかい。
なんて、愛を込めて地元民にいじられる空港は、「来期も一日2便が継続できるぞ!! 」と定期的に祝っております。
微笑ましい。好き。
長じて和歌に人生を懸けることになるとはつゆ思わず、まだ「梶間和歌」を名乗る前の私は島根県益田市にすくすく、でもありませんが、ともあれ育ちました。
生まれ育った島根県益田市、また同じ島根県の離島、隠岐郡海士町が和歌にゆかりの深い土地である、ということを強く意識したことは皆無。
小学1,2年ごろ、低学年ですから冬休みの書初めの宿題が硬筆でして、そこに「益田市は、歌人の柿本人麻呂や墨絵の雪舟が云々……」という文があったことを覚えています。
そこに出てくる「歌人」とやらがどのような存在であるか、など考えもせず、黙々と書写するばかり。
中学年に上がり冬休みの宿題が毛筆になると、小学校に上がったばかりの弟はくだんの人麻呂や雪舟の宿題について「姉ちゃんのは字数が少なくてずるい」と漏らしました。
半紙に書く毛筆の課題は1字とか、多くて4字程度ですものね。
子どもにとり、地元の偉人なんてその程度のもの。
初詣は毎年柿本神社に参りますが、「人麻呂さん」と呼ばれるその人が何をした人か、何の守り神とされているか、なんてきょうだい誰ひとり考えていなかったと思います。
子どもにとり、地元の偉人なんてその程度のもの。
なお、その弟は硬筆の課題にある柿本人麻呂を「かきのほんじんマロ」と読んでいました。
子どもにとり、地元の偉人なんてその程度のもの。
……本当に、その程度のものです。
リアル離島に降り立って
高校卒業と同時に実家を出、島根県内の大学に進学。
いくつかのアルバイトをしたなかで、地域創生だとか地元への就労支援だとかそういったことを手掛ける機関との縁がありました。
そちらで働いていると、そこに講師としてやって来る都会のおもしろい大人たちと知り合う機会が増えます。
そのなかの数人に誘われ、当時Iターンの最先端事例として話題だった隠岐郡海士町に遊びに行くことになりました。
私の育ったのは海から山を複数挟んだ農村ですが、それでもいくつかの山を越えれば海は遠くありません。
県庁所在地などに用があればJR山陰本線(の汽車)に乗り、激しくも雄大な日本海を眺めながら延々旅することになります。自県の県庁所在地より隣県2県の県庁所在地に行くほうがずっと近い益田市です、よろしく。
そうして日本海沿岸の風景に馴染んでいた私も、いざその海を渡り、同じ県内とはいえ離島に行くのだ、となると改めて心躍るものがありました。
船内で大人しくしておられず、表に出て海風(と紫外線)を浴びながら仲間たちと写真を撮ったのを覚えています。
修学旅行などで本土から目と鼻の先にある瀬戸内海の宮島に船で行くのとは違った高揚感がありました(宮島も好き。というか、海全般が好きです)
連れて行ってくれたお兄さんたちのほうは大学院の調査研究目的だったのだかと思いますが、我々大学生に小難しいことはわからず、振る舞われる新鮮な魚介類を「おいしいね、おいしいね」と頂きました。
魚とカニを除く魚介類が子どものころから大嫌いだったのですが、
「新鮮でおいしいものを知らなかったせいだ」
と確信したのは海士町で採れたてのアワビやイカを食した瞬間です。
フィールドワークの一環として、現地をあちこち歩いて回り、お住まいの方々と会話する時間もありました。
島内には信号機がひとつしかない、それも本来は必要ないのだが、信号機のない環境で育つと島の子どもたちが進学や就職で本土に出てから戸惑うので1基だけ据えてあるのだ、
という話を興味深く聴いたりしました。
牛突きの牛を見たのは海士町でなく、さらに船で渡った先の知夫村だったかな。記憶があいまいです。
「こことここは行っておくといいよ」と勧められた場所のひとつに、承久の乱で流された後鳥羽院の住まわれた場所や陵もありました。
ただ、歴史好きではあっても和歌に開眼する前の梶間にはそこに特別の感慨もなく、それらの場所を訪れたのかどうかの記憶も定かではありません。
「ふーん。元天皇さんのお墓か」ぐらいのものでした。
その「ふーん」で流した後鳥羽院、そして彼の携わった和歌の世界に、その数年後深く深くのめり込むことになるとは……。
新島守 後鳥羽院との再会
後鳥羽院とはニアミスというか、そうしてぎりぎり擦れ違った程度でしたが、
初回の豊かな離島体験で海士町にすっかり魅了された私は、大学時代だけで3回そこを訪れることになります。
うつ病と闘いながら必死で執筆した卒業論文を書き上げた自分へのご褒美に与えたのも、海士町への短期滞在でした。
私が和歌に出合うのは26歳の時、後鳥羽院の存在や和歌、偉業についてきちんと知り始めるのがその1年後ぐらいですから、
後鳥羽院とのニアミスから再会まで、5,6年は掛かっているのだと思います。縁とは本当に不思議なものですね。
日本に短歌の大会はあまたあれど、和歌の大会はこれしかないのでは、
と見つけてきた「隠岐後鳥羽院大賞」和歌の部への応募は、令和4年分が最初です。その時の題は「松」。
大会への応募経緯などはまた記事にしますが、その翌令和5年分の結果を夢にも思わなかった、「松」詠の結果の出た当時の報告記事をこちらにも掲載しますね。
あら、“令和5年分の結果”をまだご存じない?
うふふ。それはそれで順に記事にしてゆきますが、もう大会ホームページで結果も出ておりますので「新着情報」からどうぞ。
トップページはまだ令和4年分の結果のみの表示ですので、「新着情報」からご覧くださいね。
ともあれ、令和4年分の結果の出た際の報告記事です↓
個人的には「ときはなる松」のほうが気に入っていたのですが、実際には「いにしへの新島守」のほうが入選。
いにしへの新島守のご加護があったのでしょう。
和歌の世界に踏み入ってもうすぐ12年、自分なりに学び後鳥羽院の偉大さに圧倒されもしますし、その学びの過程で
「後鳥羽院!? 私の理想の男性なんですよ♡ 文武両道でかっこいい♡ 」
とおっしゃるご婦人を含め、さまざまな出会いがありました。
そうした出会いや会話のなかで
「海士町に3度も行っておきながら、和歌を知らなかった私は後鳥羽院にご挨拶することもなかった……」
という残念な気持ちの増す部分もありました。後鳥羽院を知れば知るほど。
しかし、その気になればいつでも生活保護の受けられる経済状況で、それだけのためにもう一度海士町に渡るということもできず。
「貧乏でも、夜行バスとか使えば……」
聴いて聴いて♡ 海士町はね、離島なのです。松江市まではバスで行けても、その先に海が立ちはだかっているのです。
比喩として陸の孤島と言われる島根県(本土)どころではない、リアル離島……!!!
そんな私にのちのち、まさか
なにがなんでも海士町に行かねば!!!
という事態が訪れようとは、思いもしませんでしたが……その顛末については、またの記事にて。
和歌にゆかりのある益田市に育ち海士町にも縁がありながら、その有難みをまったく感じていなかった、梶間和歌の若かりしころのお話でした。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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