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『月と鏡集』を読む【2021年5月号】

ここしばらく、あまりに評を公開してこなかったなと反省しています。リハビリ目的というわけではないですが、結社の所属欄から歌を引かせてもらうのを習慣にしようかな…と思い至ったので、今回はその第1号記事ということで。

私の所属する未来短歌会の佐伯裕子選歌欄『月と鏡集』は、毎月一度、前月号を持ち寄って評をしあう『不忍歌会』を行っています。その中で私が特に気になった歌を数首、この場所で引かせていただくことにしようかと。

『月と鏡集』のメンバーの中では、私がたぶん一番インターネットで発信しているので、欄全体の発信に少しでもつながればいいなとも思います。

とはいえ、最初から気合い入れすぎると続けるハードルが上がってしまうので、今回は三首です。ずっと三首かもしれませんし、そうでないかもしれません。また、できるだけ簡潔な評を心がけるべく、文章は常体で短いものにいたします。

それでは。

月光を浴びつつ階下の住人の咆哮を聞く梅の盆栽 / 吉田孝宏

柔らかな景から、惨状に突き落とし、また柔らかな景で受けるという構造がとても雄弁な一首。客観表現に徹することで、世界から切り離された主体の痛覚が却って浮き彫りになるように思う。

来年も同じ景色を見るだらうスプリング遊具もきつとそのまま / コバライチ*キコ

公園の遊具は永遠ではないが、その中でスプリング遊具はどのような立ち位置だろう。大型の運動遊具に比べるとまだ暫くそこにいてくれそうなものだが、多少の危うさも感じる。その危うさが、歌の主張に陰影を作っているように思う。「きつとそのまま」の「きつと」の部分も。

土壁の続く小さな町だった瘡蓋のようにそっと剥がした / 藤原かよ

土壁を剥がす行為を「瘡蓋」に喩えることに歪みがあって、はっとさせられる。瘡蓋は丁寧に剥がせば傷が治っているものだが、一度剥がした土壁は勝手にもとには戻らない。幼い頃の記憶が、傷として呼び起こされるようである。


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以上です。不忍歌会と同じく、今後も月ずれで発表していこうと思います。また、結社誌に限らず、もっと評を書いていこうと思います…。書くと言っていて書いていないのをいくつか覚えているので、楽しみにしてくださると幸甚です。


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