黄檗宗開祖隠元禅師が日本に伝えた煎茶文化
和華編集部
黄檗宗は日本三大禅宗(臨済宗、曹洞宗、黄檗宗)の一つである。その開祖は、明の時代に福建から日本に渡ってきた隠元隆琦禅師である。黄檗宗は、明清時代の文化や文物を日本に伝え、当時の日本の仏教界だけでなく、思想、哲学、文学、建築、絵画、印刷、書道、篆刻、音楽、医学、飲食、茶道、さらに公共事業や教育などの面にまで、社会生活全般に影響を与えた。
隠元などが伝えた喫茶の習慣は黄檗宗の中に受け継がれ、約 50 年を経て、隠元の 3 代目の孫弟子である日本僧の月海元昭(1675-1763)によって、新しい茶道として煎茶道に昇華された。
▲黄檗宗万福寺で売茶翁を煎茶の祖として祀る売茶堂
煎茶とは煮茶と同じ意味合いで、煎じて飲むという黄檗宗の中に生まれた新しい作法をもつ茶道である。伝統的な抹茶は宋代の点茶法を源とし、入宋した栄西禅師(1141-1215)が始めたと思 われる。抹茶は新鮮な茶葉を乾燥させ、茶臼で粉末状にひき、熱湯を注ぎ、茶筅で撹ぜてから飲む作法である。
▲紫泥大茶罐(隠元隆琦所用)中国明時代(17 世紀)一口/陶器・総高 19.3、胴径 19.6 、底径 11.5(写真:京都黄檗山萬福寺)
抹茶に対して、煎茶は茶葉を鉄釜で炒り、茶罐に入れ、熱湯を注いでから飲む。鉄釜で新鮮な茶葉を炒ることは、明代の福建における新しい方法であり、茶葉の発酵や酸化を防止し、その元々の味や天然の成分を保つ。このように鉄釜で茶葉を炒る方法は「釜炒り茶」と呼ばれ、隠元からの伝来と思われ、今も長崎など各地の製茶園に受け継がれている。なお、隠元の使った宜興産の紫砂茶罐は、現在も京都黄檗山萬福寺に保存されている。
実際に煎茶道を開いた月海元昭は、「売茶翁」 または「高遊外」と号し、「茶禅一味」を唱え、自ら京都の町に入って煎茶を振る舞い、仏法を宣揚して多数の詩偈を作り、理想の道を探り続けた。月海の煎茶は、形式化された抹茶と違い、新しい大陸文化としての新鮮さを持ち、簡単に行える喫茶を通じて、自由な精神世界を追求したため、文人たちの心を掴み、上方の社会に影響を与え、やがて民衆の趣味となり、遂に新しい茶道を確立した。この煎茶道は、隠元を始祖、月海を中興の祖と呼び、今日まで伝えられ、40 以上の流派を擁する。
▲売茶翁図(伊藤若冲筆)『売茶翁偈語』(宝暦 13 年・1763 年)口絵(写真:京都黄檗山萬福寺)
1928 年秋、煎茶道の愛好者団体「高遊会」は京都黄檗山萬福寺に「売茶堂」を建て、月海を祀り、また茶席の「有声軒」を作り、煎茶道研修の場とした。1956 年に全日本煎茶道連盟が成立し、事務局を萬福寺に設けて以来、每年5月になると盛大な煎茶道活動が行われている。