『東京クルド』の感想①
一昨日、京都の出町座という映画館で『東京クルド』というドキュメンタリー映画を見てきた。ご存知の方も多いかもしれないが、東京近郊にすむクルド人難民の二人の若者を追ったドキュメンタリー映画である。
以下の記事(有料記事の無料部分)によるとクルド人というのはこうある。
「国を持たない最大の民族」と呼ばれるクルド人はトルコやイラク、シリアなどの中東地域に推定で3500万人が暮らしているとされる。独自の言葉や文化を持つとされる一方、各国で少数派で差別や弾圧の対象となってきた。そのため、欧米やアジアで難民として生きている人も少なくない。
わたしも、数ヶ月前に入管法改正について考えたばかりで、以下の記事を書いている。母国で迫害などの危険性がある人は日本にきて難民申請をすることができる。しかし、日本の許可率の低さは有名で「0.4%」。申請中は日本に滞在することができるが「仮放免」期間になり、仕事をすることもできず、定期的に1回入国管理局に出頭しなければならないという。
そんななか、見たこの『東京クルド』で感じたことはたくさんあるので、2回に分けて書きたいとおもう。
ドキュメンタリーの主軸になっているのはラマザンとオザンという二人の若者。小学生の時に日本へやってきたので、日本語はネイティブと言ってもいい。
そんな二人のうちの一人、オザンが入国管理局で係員と面談しているのが録音されていて、それが劇中で流れるのだけど、その会話が私はかなり衝撃だった。
なぜかといえば、入国管理局で面談を担当している公務員の態度がなんだか感じが悪かっただったからだ。
特にその最後の言葉は信じられなかった。
他人の人生を扱っているという謙虚さなんかまるでゼロで、自分とは住む世界が違うとでもいいたげな、胸糞悪い上から目線を感じさせる話し方だった。相手を同じ人間だとは思っていないのだ。
自分がたまたま日本という国に生まれて、教育を受ける機会に恵まれ公務員になれたという既得権益にあぐらをかいている。それをさも自分で勝ち取った権利だと言わんばかりの顔をして、マイノリティを見下しているように感じた。
こういう人はいつか立場が逆転して、自分がマイノリティになって虐げられるかもしれないということに想像力が及ばない。
わたしは、日本で生まれたことはたまたまの偶然で、今まで教育を受けて、数々の国を旅できたことも非常にラッキーだったとおもう。
でも、最初からそう思っていたわけではない。自分も「日本人」であることで驕り高ぶった考え方をしていた。外国で「日本人」だからという理由だけで嫌な目にあったこともあったり、それが反作用を起こして、「日本人」であることを誇りに思いすぎていた時期を経てのことだ。
いま、日本語教師をやっていておもうのは、相手を人間として見られるかどうかは、その人の想像力にかかっているということだ。
もし自分が難民の立場だったら……?
もし自分が戦争のある生まれていたら……?
もし自分がその民族だというだけで弾圧されたら……?
想像力をはたらかせることで、他人を人間として尊敬できる。
それができてこそ、自分も人間でいられることができると思う。
相手を想う想像力があれば、この録音のシーンの最後の一言は決して言葉に出していえない言葉だし、許せないと思った。みなさん、ぜひ劇場で見て、一緒に怒ってください。
では、また!
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