エッセイ 永山則夫へのこだわり
「くぼせんせ…ホントに、永山則夫が好きなんですね?」
思いもせぬ問いかけに、ふと、自分を見つめ直してみた。
実は私、今まで何度か、自分が人を殺してしまったという設定の夢を見ているのだ。
「誰を?」「どんなふうに? 」「何人? 」というような具体的なことは一切出てきたことはない。
ただ、夢の中の自覚として、誰かを殺したことは、疑いようのない事実になっているのである。
しかも過失による事故や自殺に追い込む間接的な行為などが原因ではない。
あくまで自らが手を下した意図的な殺人であり、冤罪でないことは自分が一番よく知っているのである。
夢の中の私は、取り返しがつかないその現実に押しつぶされるように落ち込み、必ず決まって、
「これが もしも夢なら、俺はどれほど幸せだろうか……」
と、夢想しながら、まわりの景色を冷静に見渡して、やっぱり現実だとあきらめるのである。
ある時は、逃避行の最中の雑踏。
ある時は、揺れる列車の中。
ある時は、複数の刑事に囲まれて。
ある時は、裁判所。
ある時は、警察の取り調べ室。
そして、常に死刑判決におびえ、さらに、死刑判決が避けられないという絶望感に苛まされるのである。
このリアルな感覚……この手の夢は、だいたい年に1回か2回。
ふと、私の前世……どこかの段階で、殺人を犯してしまった経験があるのではないだろうか? と、疑ってしまう。
インチキな霊媒師に相談したらソッコーでそう決めつけられるに違いない。
ただ、毎回共通して「金目当てや自分の都合で人を殺めたのではない」という、自分自身に対する絶対的な自信と自覚があることがせめてもの救いなのである。
夢の中の私は、幸いにもまだ性根が善人なのだ。
そんな私が、夢の中で自問自答する。
「俺が人を殺すわけがない」
「でも、たしかに俺は殺人を犯した」
「夢であって欲しいが、これは夢ではない」
「きっと自分は捕まって死刑になる」
「死刑……になるには、永山基準がある。
だから……おそらく……俺は1人しか殺していないので、きっと無期懲役にちがいない」
「いや、それなのに、なんだか死刑っぽい」
「おかしい……これは、何かが間違ってる」
こうしていつしか目が覚めるのである。
その時、別に脂汗はかいていない。
だから私は、死刑囚の絶望感がなんとなく理解できるのである。
あの「取り返しがつかない」ところまで行ってしまった底なしの後悔の苦しさが……。
おそらくそれが、いつまでも私が永山則夫にこだわる理由だと思われるのである。