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映画『THE FIRST SLAM DUNK』解説

前置き


映画『THE FIRST SLAM DUNK』面白かったです。面白かったので2度3度と繰り返し観に行ってしまいました。
元々『SLAM DUNK』(スラムダンク)は多くの読者を持つ人気マンガ作品です。
その原作マンガで描かれている最後のバスケットの試合を、主人公を宮城リョータに変更して、度々宮城リョータの回想が入る形で描かれているのがこの映画となります。自分は、この映画を観るたびに、宮城リョータが2度目のゾーンプレスを突破するところは、何度観ても感動してしまいました。
しかし、この場面、実は原作マンガでは(面白いシーンではありますが)特別感動するような場面ではないのです。原作マンガの方では、2度目のゾーンプレスを突破した宮城リョータがすぐに「(アヤちゃん♡)」っとベンチを見てしまい「前みろバカモノーッ!!」と彩子に怒られるコミカルな流れになっています。しかし
、映画ではこのコミカルさを捨ててひたすら感動できるようになっています。
これは明らかに原作マンガの作者であり、この映画を監督脚本を務めた井上雄彦さんが、同じ場面をより映画では感動できるように創り変えているのです。

一体どうやったら同じ場面を描いて、より感動できるようにするなんてことが出来るのでしょうか。

(以下、この文章には映画と原作マンガのネタバレがあります)

色の意味①服について

まずマンガと映画(映像)の違いについて考えてみます。
その1つが色です。ほとんどの日本のマンガは表紙と一部のページを除けば白黒であり、映画は基本的には色が付いた形が一般的です。
そして、この映画『THE FIRST SLAM DUNK』には、原作マンガの時より、色に多くの意味を持たせています。
1番分かりやすい色の意味は、この映画の中で、宮城リョータの母親がほぼ常に黒い服を着ているということです。
まず映画が始まって、まず宮城リョータの父親が亡くなったことが分かります。その後「俺がこの家のキャプテンになるよ」と言っていた兄のソータも亡くなります。
人は亡くなった時に喪服という黒い服を着ます。その時から、ずっと黒い服を着ている(脱がない)ということは、まだその悲しみから脱せられてないという意味の読み取りが可能になります。だから、母親はずっと黒い服を着ているのです。
この黒い服を着ているということに関しては、母親だけの話ではありません。
宮城リョータの誕生日。祝いの場面でも母親はいつも通り黒い服を着ていますが、宮城リョータの方も黒い服を着ています。それは宮城リョータと亡くなったソータが同じ誕生日だからです。宮城リョータの誕生日を祝う気持ちよりも、2人の中ではいなくなったソータへの思いが強くなっているから、ここで2人とも黒い服を着ているのです。
一方、この場面で宮城リョータの妹は「(もしソータが)生きてたらね」という発言をして、2人をドキッとさせます。妹はすでにソータの死を受け入れていたからです。
そして、そんな妹は当然のように、黒では無く明るい色の服を着ています。

妹と同様、黒色の服を着ていることに対照的な人物として登場するのが、三井です。
中学生の時に、三井に初めて出会った時、宮城リョータは黒い服を着ています。ソータの亡くなった後、引越しをして、学校や団地の新しい環境に馴染むことも出来ず、上手くいっていなかったからです。
バスケットコートで1人練習をしている宮城リョータについて、奥の方で「あいつ入れるー?」などと喋っている別のバスケットをしている人物たちもいますが、ここで黒い服を着ているのは宮城リョータただ1人だけです。
そして、黒い服を着た宮城リョータの前に現れた三井は、真っ白な服を着ています。この時の三井は中学2年生です。不良になる前で、まだ無垢で純粋そうです。
この白い服を着た三井との1on1をしている時に、宮城リョータは三井に対して、兄の面影を見ます。
しかしその後、高校生になって再会した時、三井は白を着ていた時とはまったく雰囲気が変わっており、服も白い服の上に黒い学生服を着ているスタイルとなっています(もちろん学生服なので宮城リョータなども同じものを着ているのですが、ボタンを外して白い服を下に着ているのがわかるような着こなしをしているのは三井と宮城リョータだけです)。白の服の上に黒い服を羽織るという三井の服装に、もし意味を見出そうとすれば、バスケットを怪我で辞めた挫折そのものを現していると、見ることも出来ます。
そして、不良になった三井が湘北のバスケの試合(宮城が試合に出れなくてイライラしてるシーン)をこっそり見に来ている時、暗い色の帽子をかぶってはいますが、着ている服は中学生のころと同じくやはり真っ白のままなのです。
これは三井はバスケットと関わっている時だけ白の服を着ることが可能になる、と言ってもいいのではないでしょうか。
この後、三井とその仲間たちと屋上で殴られて、1人倒れている宮城リョータに雪が降ってきます。(沖縄県出身なので)初めて見る雪を見て、宮城リョータは「なんだこれ」「ゴミみたいだな」とつぶやきます。これは、かつて白い服を着ていた(兄の面影を感じた)三井はバラバラになってもういない、と考えることが出来ます。雪というものはビジュアル的に、積もることがない限り白色がバラバラに小さく砕けたものであり、そしてすぐに消えてしまうものでもあるからです。
回想の中で最後に出てくる三井は、バスケ部に戻ることを決めて体育館で頭を下げます。その時着ている服は、(青みがかった)灰色です。それは、白から黒に服が変化した男が、もう一度白を着ようとしているからではないでしょうか? 灰色は、黒と白の中間の色です(ちなみにこの時の宮城リョータの服は黒に白い線が入った服です。つまり三井との和解を経て、少しだけ黒の面積が減っているのです)。

別にこれは、バスケットをしている人間=白い服を着ている、というわけではありません。
高校2年生の時の赤木は練習中、黒色だけれども肩口だけ白という不思議なタンクトップを着ています。この頃の赤木はバスケットへの情熱が強すぎるあまり、あまり周囲のメンバーと上手くいっていません。その状況を表現するために、白と黒が奇妙に混じった服を着ているのだと思います。
ちなみに、山王の沢北も神社に参拝している時に着ているのは、白ではなく、黒いタンクトップです。その時の沢北は、高校バスケでやることがもうない、という天才が故の悩みを抱えていました。その悩みを吐露する場面だからこそ、タンクトップの色が黒なのです。

色の意味②リストバンドについて

そして色が特徴的に使われているのは、白や黒といった服だけではありません。
それは、山王との試合中に宮城リョータが左手に付けているリストバンドです。赤色のリストバンドは、映画のストーリーにはっきりと描かれているとおり、ソータの形見です。
そして、黒色の方を付けている理由などは明かされません。これは一見、意味がないようにも見えます。意味は語られていませんが、宮城リョータは基本的に回想シーンのミニバスの試合や三井と出会った練習の時も、黒いリストバンドを基本的に付けています。しかし、なぜ常に黒を付けているのかという理由があると仮定した時、答えは簡単に出てきます。
これは母親が黒い服を着ているのと同様、ソータを失ったことを表現しているからです。つまり、左手に付けた赤と黒のリストバンドは、どちらも宮城リョータが抱えているソータへの思いを表したものです。
いやいや赤のリストバンドは形見だからそうだと分かるけど、黒のリストバンドはソータとは関係ないじゃん、と思われるでしょうか?
しかし冒頭のバスケをしているソータの服を思い出してください。「黒い」タンクトップと「赤い」ズボンです。赤と黒という色の組み合わせは、マンガでは湘北のチームカラーですが、この映画のおいてはソータを象徴している色でもあるのです。
むしろ、この赤と黒という色の組み合わせを通じて、この映画の宮城リョータの物語『THE FIRST SLAM DUNK』と原作マンガのスラムダンクの物語が繋がっている、という言い方も出来るかもしれません。
そして赤と黒の組み合わせが最後に登場するのは、この映画のエンディングです。宮城リョータはアメリカのチームに入り、黄色のユニフォームを着ています。これは子供の時に所属していたミニバスのチームと同じ色です。そして、子供の頃のミニバスと同じ色のユニフォームを着ている宮城リョータの履いているバスケットシューズの色は、赤と黒なのです。それは赤と黒の組み合わせの中に、宮城リョータがこれまで歩んだ物語(映画+原作マンガ)が入っているからです。
もっと深読みをしていくと、そもそもスラムダンクというのは全員「黒い」髪の湘北バスケットボール部に「赤い」髪の不良が入部することから始まります。そう考えてみると、スラムダンクという物語そのものが、そもそも赤と黒が組み合わさる所から始まっている物語として考えることも可能なのかもしれません。

左手の意味

話が少し大きくなりすぎたので、映画『THE FIRST SLAM DUNK』の宮城リョータの話に戻ります。
宮城リョータは赤と黒のリストバンドを左手に付けています。
では、この左手というのは何か意味があるのでしょうか? 
なぜ左手なのでしょうか?
映画の最中、宮城リョータは何度か手の平を見ることがあります。そして、映画が進むにつれ、見ている自分の手が、左から右の手の平に変化しているのです。
まず左の手の平が大きく写る主な場面は
○オープニング直前 左手首に黒と赤のリストバンドを付けて「いってくる」
○屋上 三井に殴られた時に、自分の血を確認するため、手の平の血を見る
○誕生日 ケーキのネームプレートを握りしめて砕く
この全てがソータに関係してくるシーンです。オープニング直前のシーンについては、赤のリストバンドはソータの形見ですし、「いってくる」というのは映画を観終えた状態ならば、これはソータに向けた言葉だと分かります。
三井に殴られた時のことですが、前述の通り、宮城リョータと三井は中学生の時に出会っています。その三井との1on1の際に、宮城リョータは、はっきりと三井とソータを重ねています。映画の演出としても、三井もソータも友達が呼びにきて(その友だちが金網越しに2人というところまでちゃんと一緒)去っていくところまで、三井とソータは一緒です。
しかし宮城リョータが高校生になって再会した三井は、大きく変わってしまっていました。
屋上での殴り合い、そこで三井が一番感情的になった瞬間は、自分の怪我をした左膝と履いている普通のシューズ、その横に転がっている宮城のバスケットシューズを見比べた後です。この時、三井はバスケットを失ってしまった怒りを宮城リョータにぶつけているのです(ちなみに徳男だけはそれに気付いている表情をしています)。そして、宮城リョータの方は変わってしまった三井を見て、ソータがいなくなってしまったことのやるせなさを、初めて他人(三井)にぶつけているのです。だから、宮城リョータは三井だけしか殴らないのです。
そして誕生日ケーキのネームプレートを握りしめて粉々にする場面、ここをソータと関係が無いと思わない人はいないと思います。
横には誰もいない席にケーキが置かれていますが、これがソータのケーキだというのは誰に目にも明らかです。
つまり、宮城リョータの左手が映画の中でアップで映るときは、必ずソータが関係している場面になっています。
ちなみに母親に手紙を書いている時に「生きているのが俺ですみません」という内容の事を書いてしまった時に、その紙をクシャクシャに握り締める時も左手です(これは手の平は写りませんが)。

それでは、映画の中で左手ばかりを見ていた宮城リョータが、途中から右手の方を見るようになったきっかけは何なのか?
それは湘北のマネージャーの彩子です。彩子が、宮城リョータの右の手の平にマジックで文字を書いたときから、宮城リョータは、右の手の平を試合中に見るしぐさを時々します。そして、宮城リョータがフリースローを打つ時に、初めて右の手の平がアップになり、観客にもと彩子が書いた文字が『NO.1ガード』だと分かるようになります(もちろん原作マンガを読んでいる人には分かっているのですが)。
この彩子の行為がきっかけとなり、宮城リョータは左手ではなく、右手を見るように映画の途中で変化します。映画のラストで、アメリカのトイレで吐きそうにまっている宮城リョータが見るのも、やはり右の手の平です。

このブログの前書きで「一体どうやったら同じ場面を描いて、より感動できるようにするなんてことが出来るのでしょうか」と書きました。しかし、宮城リョータが2度目のゾーンプレスを突破している時、原作マンガでは赤と黒のリストバンドをしている左手で2人を抜きさっていますが、映画では右手で抜くように実は改変されています。
映画全体として宮城リョータの左手から右手に注目が移行するような流れになっており、宮城リョータの最大の見せ場となる2度目のゾーンプレスをドリブル突破する場面も、原作マンガは左手なのに、映画では右手に改変されている。
これはただの偶然なのでしょうか?

省略と改変

別にたいした意味もなく変えたのかもしれません。
しかし、ここまで読んでいただいた方なら分かると思いますが、この映画は意味で埋め尽くされています。この意味というのは映画に出てくるものから考えることも出来ますが、ここで少し原作マンガから映画になる時にどの場面がカットされているのか、という方向から考えることも出来ます。
例えば、試合の後半、山王がメンバーチェンジをしてかなり大柄な男性が出てくるのですが、これがセンターの河田の弟というのは、映画を観ているだけでは分からないようになっています(もちろん原作マンガを読んでいる人には明らかですが)。この映画では宮城リョータとソータの兄弟の物語がメインとなっているので、そこに別の兄弟が現れるとブレてしまうから隠しているのです。
他にも原作マンガには出てくるけれども隠されたエピソードとして、沢北の中学生時代もあります。沢北は中学校の時に、訳あって先輩数人に殴られるエピソードがあるのですが、これも映画の宮城リョータの転校直後のエピソードとかぶってしまうからこそ映画では描かれていません。
もちろん尺の都合など様々な別の要因もあるでしょうが、このように映画の物語を際立たせるために、原作マンガは巧みに省略されています。

しかし、省略はされても改変している部分は、実はあまり多くありません。例えば原作マンガの魚住が出てくるエピソードは、映画では一見全てカットされているように見えます。しかしタイムアウトの時には観客席の一番前にちゃんと魚住はおり、桜木がテーブルに突っ込んだ時は後ろの方の席にいます。
原作のエピソードが描かれてはいないが、改変されたわけではなくて、省略されただけ、という形に観客は受け取れるようになっています。
もちろん改変は0というわけではありません。流川親衛隊の存在や(おそらく映画のリアリティ的に合わないため)、バスケットはお好きですか? の腰を痛めた桜木の返答部分(おそらく観客がコートに降りる事などがリアリティが無い+桜木ではなく宮城リョータが主人公の映画のため)などはっきり省略ではなく完全に消されていると思われる原作漫画の場面もあります。
しかし、原作ファンが大勢観にくると分かっている映画で、意味もない改変はリスクなのです。だからこそ、カットされている原作マンガのエピソードも改変したのではなく、省略しただけ(描かれていないだけ)という形を映画はなるべくとっています。
それなのに、どうして今回の主人公の見せ場のドリブル突破を、左手から右手に改変したのでしょうか。

右手の意味

宮城リョータが左手を見る時、それはすべてソータと関係してくる場面だと書きました。その宮城リョータとソータの関係性を象徴しているのが、赤と黒のリストバンドを付けている左手です。
では、右手は何を意味するものなのでしょうか?
この映画を通して、宮城リョータの意識を左手から右手に変化させたのは、彩子です。
映画で『NO.1ガード』という文字が出る直前、試合前日の回想となっています。山王戦のことで不安でいっぱいになり、山道を走っている宮城リョータの前に、彩子が現れます。ここで宮城リョータが
「この俺が切り込み隊長だってさ、俺はずっと尻込みばっかりだ」
というと彩子は
「どこが? めっちゃ喧嘩っ早いじゃん」
と返します。
さらに宮城リョータが
「心臓バクバクだ」
というと彩子が
「ウソ、知らなかった。いつも余裕に見えてるよ」
そして、夜空に月が顔を出します。その後、水たまりの写った月の上に、木の葉が1枚落ちて重なります。
実は、この映画の中で自分が一番意味が分からなかったのが、この水たまりに写った月の上に、木の葉が一枚落ちてきて重なることの意味でした。
まず木の葉は一体何を意味しているのでしょうか?
これも実はソータでした。彩子に会って、山王と戦う不安をつぶやいている時に、風が吹いて木々がざわめきます。映画の関連本には、このシーンのアイデアスケッチが載っているのですが、葉っぱが舞うシーンのところに「ザザザと風が強くなり葉っぱが舞う」「風でソータの存在を感じさせる」とはっきり書かれています。
では月というのは何を意味しているのでしょうか。
宮城リョータが彩子と会話を始めてから、月が出て明るくなります。ですから、この会話の中に答えがあることは間違いありません。
もう一度2人の会話を書き起こしてみます。
「この俺が切り込み隊長だってさ、俺はずっと尻込みばっかりだ」
「どこが? めっちゃ喧嘩っ早いじゃん」
「心臓バクバクだ」
「ウソ、知らなかった。いつも余裕に見えてるよ」
この会話を、まず表面的に見れば、宮城リョータの自己評価と、他人(彩子)から見た評価がズレています。もっというと、ソータから言われていた「俺だっていつもそうよ、心臓バクバク。だからめいいっぱい平気なフリをする」というのが、宮城リョータは知らず知らずのうちに実践出来ていたことが分かります。そして、そのことに、宮城リョータは彩子の反応で初めて気づかされるのです。
今度は、これらの会話を個人別に見てみます。
宮城リョータは
「この俺が切り込み隊長だってさ、俺はずっと尻込みばっかりだ」
「心臓バクバクだ」
彩子は
「どこが? めっちゃ喧嘩っ早いじゃん」
「ウソ、知らなかった。いつも余裕に見えてるよ
と言いました。
この会話、宮城リョータの方は、映画『THE FIRST SLAM DUNK』の物語の主人公として自分の思いを語っています。しかし、この時の彩子は原作マンガの『SLAM DUNK』の方の宮城リョータを見た印象について答えているのです。
実は、この映画の中で、宮城リョータは彩子の事を1度も名前を呼んでいません。それぐらい2人の関係性は薄いのです。
それにも関わらず、観ている観客の中には、2人の関係を濃く感じる人も多かったはずです。2人の間に流れる空気に、映画には出てこない過去が含まれているからです。
そして、映画には出てこない過去というのが、原作マンガなのです。
彩子はこの映画の中で、映画の物語と原作マンガの物語を繋げる役割を果たしているのです。
彩子が、右手に文字を書いた時「いつもみたいにエラそーにしてなさいよ」と言った時の意味は、「いつもみたいに(原作マンガの時みたいに)エラそーにしてなさいよ」ということです。

そう考えると、水たまりに写った月の上に木の葉が1枚落ちて重なる場面の意味は分かってきます。
映画のストーリーは基本的に暗くてシリアスなものですが、そこに原作マンガの明るいストーリーが光が射すのです。
水たまりに写った月=マンガ原作のストーリー=サブテキスト
木の葉=映画の(ソータの)ストーリー=テキスト
ということです。
この映画では、宮城リョータの過去が回想シーンによって度々出てきますが、宮城リョータの過去はそれだけではありません。山王戦から見た時に、原作マンガの中に湘北の一員として活躍する過去がたくさん載っています。この映画で魚住の存在など、原作マンガのエピソードを省略はしても基本的に削除をしていない理由は、ここで原作マンガの物語が映画と合流してくるからです。
宮城リョータが左手を見る(アップになる)時、すべてソータと関係がある場面になるのは当然です。宮城リョータは左手に映画の物語を、右手に(彩子を通じて)原作マンガの物語を宿しているのです。
そして、ここからは、映画(テキスト)と原作マンガ(サブテキスト)が合わさって、宮城リョータの物語は進んでいくことになります。

左手から右手への変更理由

しかし、結局どうして、2度目のゾーンプレスをドリブル突破する場面を、原作マンガでは左手でドリブル突破するのに、映画では右手にわざわざ改変したのでしょうか?
左手は映画の物語を宿していると書きました。それなら、ソータとの物語が宿った左手でそのままドリブル突破してはなぜ駄目だったのでしょうか。
それは原作マンガと違って、このシーンは宮城リョータが、ソータを越えた瞬間だったからだと思います。
映画では描かれなかった原作マンガのエピソードに、山王戦の前半、湘北ベンチで三井について
「中学でMVPをとった頃は今よりすごかったんですか? だとしたらものすごい中学生だ…!!」
という質問をして
「いや…そう思ってるのはたぶん 本人だけだよ」
「……だが、そろそろ自分を信じていい頃だ…」
「今の君は もう十分 あの頃を越えているよ」
と答えるやりとりがあります。
そして、これに似た場面として、妹が宮城リョータとソータのことを
「とっくに追い越しているのにね」
と話す場面があります。この会話はあくまで年齢についての話なのですが、実はもう別の意味でも、宮城リョータはソータを追い越しているということではないでしょうか。
子供の頃に大人達から「兄貴の代わりにはなれないさ」と言われたように。宮城リョータは優秀な兄と比べられます(少なくとも本人は比べています)。
映画が始まってすぐの場面で、ソータから「俺を倒すんだぞ」と言われていましたが、兄として選手としても優れていたソータを乗り越えるには、この映画の物語(宮城リョータの回想)だけでは足りないのです。
だから原作マンガの物語(もう1つの過去)が、必要なのです。
2度目のゾーンプレスを突破する直前、宮城リョータの「ドリブルこそチビの生きる道なんだよ」と言う言葉があります。
これは原作マンガにも出てくる言葉です。こんな自分よりでかい相手に囲まれてどうすればいいのか、という状況の中、宮城リョータが考えた末の答えがこれです。
しかし「兄貴の代わりにはなれないさ」「とっくに追い越しているのにね」という言葉に「ドリブルこそチビの生きる道なんだよ」と並べみると、原作マンガとは違った意味が見えてこないでしょうか。
それは「ドリブルこそチビ(ソータでなく宮城リョータ)の生きる道なんだよ」という意味です。
映画のオリジナルキャラクターのソータと宮城リョータの違いの1つが、この身長差です。ソータは決して、同年代の中で身長が低い子供ではありませんでした。身長が低いのは、あくまで宮城リョータだけなのです。ソータの身長が低くない設定の理由は、この宮城リョータの言葉で回収することができるのです。
ミニバスの試合後に、ソータの部屋で宮城リョータはバスケ雑誌を読み始めます。そこで宮城リョータ自身は妄想の中で、雑誌の選手の華麗なプレイと自分を重ね合わせます。しかし、この場面は宮城リョータは、雑誌の中の選手と同時に、ソータとも自分を重ね合わせているのです。
雑誌を読み始めるのはソータが雑誌を読んでいた幻影を見てから(思い出してから)ですし、この時、宮城リョータは自分の服ではなく、わざわざソータの服を着ていました。それは自分をソータに重ね合わせたかったからです(そしてその行為が母親の逆鱗に触れたのです)。
生前、ソータの方も、隠れ家の中にいる時に「やったー、王者山王を倒したー」と雑誌を読みながら、宮城リョータの前で妄想を披露していました。
しかし、この2人の妄想には大きな違いがあります。
ソータの方は「エース、宮城ソータくん、行ったー」と言う自身の実況のセリフの
通り、あくまでソータ本人として山王と戦っています。しかし、宮城リョータは、仮面を付け自分の存在を薄くすることによって、雑誌のプレイと自身を重ね合わせているのです。
うがった見方をすれば、この映画の宮城リョータは、背番号は同じ7番を選び、兄の形見の赤いリストバンドを付けたりしていて、自分を兄に重ね合わそうとした子供時代と一見何も変わっていないようにも見えます。
そして、そのうがった見方に対して真っ向から反論しているのが「ドリブルこそチビ(宮城リョータ)の生きる道なんだよ」という言葉なのです。
「河田は河田、赤木は赤木だ」という言葉が作品の中でもありましたが、ソータはソータ、宮城リョータは宮城リョータなのです。そんなソータと違う宮城リョータの(山王戦までの)生きてきた道は、原作マンガの中ですでに描かれています。
だから(原作マンガと違うと指摘されるリスクを背負ってでも)2度目のゾーンプレスを突破するのは、映画の物語を宿した左手ではなく、宮城リョータの人生を宿した右手でなければいけなかったのです。

この場面、2度目のゾーンプレスを受けている宮城リョータを、彩子と母親の2人が応援しています。
彩子と母親は交互に拳を握りしめて「行け」「行け」と応援します。そして最後に大きな声で「行け、リョータ!」と宮城リョータに声を届けたのは、彩子の方でした。
この映画単独で見た時に、宮城リョータと彩子の関係は薄く、はるかに母親の方が重要キャラクターのはずです。宮城リョータは彩子の名前を呼ぶことすら1度もありません。それなのに、応援合戦(別に2人は競走してはいませんが)に彩子が勝つというのは、もう原作マンガという、かさ増しが無ければありえないのです。
そのことに映画の観客が気づかないのは当たり前です。我々も、彩子を通じて原作マンガのかさ増しをすでに(もしくは映画の最初から)受けているからです。

ちなみに、原作マンガでは、左手でゾーンプレスを突破してから、その後のドリブルもそのまま左手で行っており、この場面、右手は使われることはありません。
しかし映画では、右手で突破した後に、そのボールを左手で受けているのです。
なぜ右手抜いたボールを左手で受けるのか?
宮城リョータが「ドリブルこそチビ(ソータでなく宮城リョータ)の生きる道なんだよ」とソータの存在を乗り越えてから、映画で宮城リョータの回想が挟まれることは無くなります。桜木花道の言葉をかりると「俺は今なんだよ」という言葉通り、まさに山王戦は、今、現在進行形としての物語になったのです。そうなると過去である回想は終わりを告げ、もう映画の中で浮上してくることは山王戦が終わらない限りありません。
つまり右手で抜いたボールを左手で受けている理由は、この映画の物語の中で「過去の出来事(左手)はそえるだけ」になったということではないかと思います。

ソータの物語が、そえられるだけの存在になるというのは、一見悲しいことにも思えます。
しかし、エンドロール後に置かれていたソータの写真、1番中央に置かれているのはバスケをしている時ではなく、アイスを食べている時の写真になっています。これは、宮城リョータがソータを乗り越えた事により、ソータはようやく兄やキャプテンという立場(重荷)から解放され、無邪気な12歳の子供の顔を見せることが可能になったのです。それをどう見るかは、各々の判断ですが、1つ言えるのはソータは忘れられたわけではないのです。
山王戦の後、ようやく悲しみの象徴でなくなった賑やかな海で、宮城リョータ
と母親が向かい合います。ここで、2人とも黒い服はようやく着ていないのですが、どちらの靴の色が黒なのです。これは、ソータの存在(黒の面積)が小さくなっても、消えることはないという意味だと自分は思いました。
ちなみに、2度目のゾーンプレスを突破するシーンは宮城リョータが、ソータを越えた瞬間だったと書きましたが、宮城リョータはドリブル突破した後、そのままカメラを乗り越えるような動き(動線)になっていることもここで書いておきます。

2度目のゾーンプレスとミニバスの試合

同じ場面でも、映画独自の情報を付け足すことで、感動を深める事ができます。ここまで原作マンガに無かった、この映画に付け足された意味について書いてきました。
しかしここまで書いたことは、音楽で言うと、感動した音楽の歌詞の部分の意味を解説をしただけのようなものです。
音楽は、リズム、メロディー、キー、それを誰が歌っているかなどいろいろな要素が絡まり合い構成されています。
ですから、宮城リョータが2度目のゾーンプレスを突破するところがなぜ感動できるのかをちゃんと語ろうとするなら、カット割り、音楽、物語など色々な要素について考えなければいけなのですが、さすがにこの文章も長くなってしまいましたので、最後に、物語についてだけ触れてこの文章を終えようと思います。

この2度目のゾーンプレスは1度目のゾーンプレスの繰り返しのような場面ですが、実は、ミニバスの試合のシーンの繰り返しでもあります。
どういうことかというと、ミニバスと山王戦2回目のゾーンプレスの1つ目の共通点として、母親が宮城リョータのバスケの試合を観ています(正確には母親は最初からいますが、巧みに分からないようにされています。分かりやすい所でいうと試合の前半で「オッケー、しかし今日の三井はいいぜ……山王よ」と三井が言っているシーンの後ろに母親はちゃんと映ってはいます。しかし初見では絶対分かりません)。
2つ目の共通点として、ミニバスの試合の途中から宮城リョータが徹底マークされることです。これは1度目のゾーンプレスの時とも共通していますが、ミニバスの時に「弟、たいしたことないんやし」と言われています。試合中に宮城リョータがこのように言葉ではっきりと煽られるのは、2度目のゾーンプレスの時に「もうキレがないピョン」と言われる時だけしかありません。
ミニバスの流れを整理すると
1、徹底マークされる
2、相手チームから言葉で煽られる
3、つぶされる
という流れになっています。これを一度、宮城リョータも観客も経験しているわけです。この1、2という流れがきた時点で、3という次の展開になることを観客は予想できます。いや、予想してをしてしまうのです。
また1度目のゾーンプレスの経験により、いかにこの徹底マークが厳しいものなのかが分かるため、さらに3、つぶされるへの結末はさらに想像しやすくなっています(これは湘北を観客席で応援しているキャラクター達の心情に近くなるということでもあります)。
しかし1、2と同じようにきても、違っている箇所があります。ミニバスの見ていただけの時とは違い、山王戦で母親ははっきりと宮城リョータの応援をするのです。この応援が3へ向かう展開への亀裂となるのです。
宮城リョータの回想で、母親と上手くいかない、向き合えないエピソードが多く出てきます。特に、2回目のゾーンプレスを突破する直前の回想では、ケーキを食べる場面では母親が背を向けており、母親が部屋を訪ねてきた時は宮城リョータが背を向けたまま、と分かりやすく2人が向き合うことはありません。
その母親が、今ようやく宮城リョータのことを見つめて応援しているのです。
ジブリの『魔女の宅急便』という映画では、魔法の力を失った主人公が魔法の力を取り戻す瞬間は感動的ですが、どうやって取り戻したのかという理屈は存在していません。ただ、観客がこうなってほしい、という希望が(リアリティを持って)叶えられた時、理屈はなくても感動してしまうのです。
母親と一緒に映画を観ている観客が、3のような形にならないでほしい、と強く願った時点で、ほぼ映画の勝利なのです。
このような、予想を最高の形で裏切り、リアリイティを持って観客の願いを叶える、という映画の形に感動の一端があるのは間違いないと思います。
それを、圧倒的な表現力で描いてくれたのがこの映画『THE FIRST SLAM DUNK』なのです。

最後に


えー、そもそも2回目のゾーンプレスを突破するところって本当に右手だった? と疑う人がいるかもしれません。それならもう1度映画を観ることをオススメします。
きっと面白いですし、ここに書いた文章は映画館で観た記憶だけで書いているので、間違っているかもしれません。
それに自分がもう一度観ても、どうしても感激して涙で画面がよく見えなくなるので、正確な検証が出来なくて困っているのです。

この文章自体が、自分の涙の中に見た、ただの妄想だったらスミマセン。

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