「存在」とは何か?
目の前に1個のリンゴがあるとします。
艶やかなリンゴは机の上で赤く美味しそうに光っています。手で触ると張りと弾力があり、歯ごたえは十分そうです。顔を近づけると微かなリンゴの甘い芳香が漂います。
さて、ここで問題です。
目の前にあるこのリンゴは、はたして「存在」しているといえるのでしょうか?
1.量子状態と「存在」
還元主義的に考えてみましょう。
我々が「リンゴ」と認識しているそれは、還元すれば様々な分子、原子、素粒子から構成されています。
そのように考えると、そこに「本当にある」のは素粒子やその相互作用であって、「リンゴ」という存在は単なる「見かけ上のもの」、ということになります。
しかし、ここで問題が生じます。
量子論によれば、ミクロにあるのは素粒子の量子的重ねあわせ状態であって、それは観測されるまでは物理量として確定しません。別の言葉でいえば、ミクロにおいて、重ね合わせ状態にあるリンゴ(を構成する素粒子)は「存在」しているとはいえません。
では、私が眺めていないとき、リンゴは存在しないのでしょうか???
1.a 我々が眺めていないとき、月は存在するか?
ここで、アインシュタインの有名な問いがあります。
「我々が眺めていないとき、月は存在しないのか?」
これは観測が波動関数を収束させるとするコペンハーゲン解釈への批判として唱えられたものですが、この問いは「存在」の定義に関する多くの示唆を含んでいます。
リンゴのケースでいうならば、「私が眺めていないとき、リンゴは存在していないのか?」となりますが、直感的に考えて、私が「観測」していない時にはリンゴは重ね合わせ状態にあって存在していない、などという理解はなかなか困難でしょう。
そこで、「観測」によらずに存在を説明する概念が必要になってきます。その一つに、「量子デコヒーレンス」があります。
1.b 量子デコヒーレンス
「量子デコヒーレンス」とはなんでしょうか。
例によってWikipediaでひいてみると、以下となります。
ある系が量子的重ね合わせ状態にあるとしましょう。例えば某有名思考実験のように、「猫が生きている状態」と「猫が死んでいる状態」が重ね合わせ状態にあるとします。
しかし、このような状態がマクロで重ね合わさっているとはなかなか考えづらいものです。むしろ、猫の周囲に大量にある気体分子などとの相互作用によって、量子状態は簡単に壊されてしまうと考えられるでしょう。
そして、重ね合わせ系は古典状態に移行します。すなわち、「猫が生きている状態」と「死んでいる状態」は箱の中で「確定」します。
このように、量子系の状態が環境(たとえば周囲に大量にある気体分子など)との相互作用によって「壊されて」しまうような現象が、量子デコヒーレンスです。
では、なぜ量子系の状態は環境との相互作用によって壊れてしまうのでしょうか。
それは、環境との相互作用によって情報が外部環境に「散逸」し、いわば状態がマクロにおいて統計的に「平均化」されてしまうことで、量子状態が失われるためです。純粋な量子状態がマクロレベルで平均化されて混合状態に移行する、とも言えます。
この量子デコヒーレンスの考えによれば、たとえ我々が視ていない時であっても、リンゴを構成する素粒子は外部環境との相互作用によって量子状態が破壊され、マクロ系においては古典的な「リンゴ」と振る舞う、と考えられます。これは我々の直観と整合する見方といえるでしょう。
1.c ウィグナーの友人
しかし一方で、ではデコヒーレンスの概念があれば、「観測」という行為は必要なくなるのか、といえば、そうではありません。
たとえば猫のケースを考えたとき、「生/死の重ね合わせ状態にある猫」という「量子系」と、相互作用する周囲の気体分子のような「外部環境」、そして我々のような「観測者」は、実はまとめてひとつの大きな系を形成しているとも考えられます。
そのような「大きな系」の中で量子状態が統計的に平均化されて古典的に振る舞うようになることが、デコヒーレンスの過程です。
ここで、「ウィグナーの友人」の思考実験を考えてみましょう。
「ウィグナーの友人」の思考実験では、量子系をとる装置と、それを観測する友人、十分遠く離れたところから実験結果を通信で聴くウィグナーを考えます。そうすると、「実験装置と友人」という量子系を外部から観測するウィグナー、というメタ図式が生まれます。
同様に、猫と外部環境、それを観測する観測者は、一つの大きな量子系となっているのであり、それを外部から観測する者からみたら、やはり重ね合わせ状態である、ともいえます。
デコヒーレンスのような現象を考えたとしても、やはりどこかに「観測」という行為が介在する必要があると言えそうです。
1.d 存在の二つの定義
まとめると、物質的存在の定義は以下の二つの方向性があるように考えます。
存在に客観的根拠を置く立場:量子デコヒーレンスによる統計的平均化により、量子状態がマクロにおいて古典系に変化することで「存在」が現れる。これは存在の「客観性」を考える立場です。
存在の主観性を重視する立場:観測により量子状態がなんらかの物理量として確定することで、「存在」が現れる。これは存在が観測者に依存する「主観性」のあるもの、ととらえる立場です。
いずれにせよ、我々はなにか古典的に取り扱えるものを「存在」と呼んでいるのではないか、という仮説が浮かび上がる気がします。
以下、この二つの方向についてそれぞれ考察していきたいと思います。
2.一つめの定義:ミクロからマクロへの像
一つ目の定義によれば、我々はデコヒーレンスによってマクロレベルで平均化され、いわば「古典化」された系を「存在」と認識している、ということでした。
さて、別の記事では、存在を「ミクロからマクロへの像」として定義する、というアイデアを提示しましたが、この見方はまさに上記と通じる見方です。
しかし一方で、たとえば「リンゴ」という存在をデコヒーレンスだけで説明しようとすると、無理があるように思います。
なぜなら一般に、デコヒーレンスは外部環境との「ランダムな」相互作用によって起こっているのであり、「リンゴ」のような構造化された像をそこから形成することは困難であると考えられるからです。
「リンゴ」という「像」が形成されるためには、量子系をマクロレベルで「構造的に」眺める視点がなくてはなりません。
2.a 「構造化」されたデコヒーレンス
ここで、脳内のニューロンのネットワークというものを考えてみます。
ニューロンは、ひとつひとつをとってみたら、「0」と「1」の二つの情報をもつような1ビットの情報単位であると考えられます(注:ただしその見方には異論もあります)。
このような情報単位が複雑なネットワークを構成することで、マクロレベルにおいて「ドの音」とか「赤い色」とかのクオリアという像を生みだしているわけですが、このような構造化されたネットワークはまさに、「リンゴ」を構造的に眺める視点であると言えるのではないでしょうか。
このように考えてみると、人間の意識は「構造化されたデコヒーレンス」によって起こっている、という描像が可能かもしれません。
3.二つ目の定義:観測
では、二つ目の定義です。これは「観測」によって成立する存在の主観的側面を重視した立場なのでした。
ここでまず疑問が生じます。ここでいう「観測」とは、一体物理的に何を意味するでしょうか?
3.a 「観測」とはなにか
これについては別の記事でも触れたように、「観測」とは相互作用による情報の受け渡しであると考えられます。
そして重要なことに、これはまさに「クオリア」の生成と表裏一体の定義なのです。「観測」行為の私秘性を担保するには、そこに何らかの私秘的な情報が生じていなければなりません。そのような私秘的な情報こそが、クオリアなのでした。
この描像に従えば、ベル状態の粒子ABのペアにおいて、1ビットの私秘的な情報、すなわち「原始クオリア」が生じることとなります。
3.b デコヒーレンスは無数の「観測」によって成立する
さて、「観測」が「情報の受け渡し」であるとするなら、「デコヒーレンス」の概念も「観測」で説明ができることになります。なぜならデコヒーレンスは外部環境との無数の「情報の受け渡し」によって起こるのであり、別の言葉で言えば「外部環境による無数の観測」によって情報が散逸することで起こっている、とも言えることになるからです。
デコヒーレンスは観測による波束の収束という概念を使わずに古典的「存在」を説明する考えですが、だからといって「観測」という現象を無視しているわけではありません。むしろデコヒーレンスは環境との相互作用という無数の「観測」によって成立しているのであり、個別の観測というものはある意味、デコヒーレンスの「特殊ケース」なのです。
そのように考えると、「存在」の二つの方向の定義が繋がってくるように考えられます。
4.クオリアの生成メカニズム
まとめましょう。
まず、「存在」に対するマクロの定義では、脳内におけるニューロンネットワークによる「構造化されたデコヒーレンス」という考え方で、「ミクロ→マクロ」への像の形成を、意識による認識プロセスと対応させられるのではないか、という描像が得られました。
一方「存在」に対するミクロの定義では、「観測」という現象がクオリアの生成メカニズムと表裏一体であることが(ひとつのアイデアとして)確認されました。
上記を鑑みると、クオリアの生成メカニズムはまさに「存在」の定義と表裏一体なのではないか、という描像が得られます。
ここに、実在論と認識論の統合が成立した、と解釈することも、可能ではないでしょうか。
5.認識と存在
ここで、別の記事では、自然界のミクロの基底には「なにも定まっていない状態」がある、というアイデアが提示されました。
これに従うなら、上記「存在=認識」のプロセスにより、「何も定まっていない」ミクロ状態からマクロの諸存在が無数に創発されていく描像が浮かび上がります。
逆にいえば、認識が消滅した世界は、ミクロの「なにも定まっていない」基底状態以外はなにも存在しない世界である。
これまでの記事の知見と完全に整合する結論と言えるでしょう。
まとめ
量子状態(=非存在)から「存在」と呼べる状態に移行するには、「マクロスケールから眺めることによる状態の平均化」と「観測による状態の確定」のふたつの方法があると考えられる。これは存在のふたつの方向からの定義付けに対応する。
「存在」のひとつめの定義は、「ミクロからマクロへの像」である。これは量子デコヒーレンスに対応する。
デコヒーレンスでは、「リンゴ」のような構造化された「像」の形成を十分説明できない。そこで、脳の複雑なネットワークによる「構造化されたデコヒーレンス」という考えが浮上する。
一方、別の定義では「存在」は客観的に記述できない。「AにとってBが存在しているとは、AとBが相互作用可能であるということである」
相互作用可能性とは情報の伝達可能性であり、クオリアの発生メカニズムは後者の存在の定義そのものである。
まとめると、クオリアの生成メカニズムは存在の定義と等価である。
ここに、実在論と認識論の統合が達成された(かもしれない)。
存在は意識による認識によって成り立っているといえる。認識が消滅した世界はあらゆる状態が重なり合ったミクロの基底状態以外は何も存在しない世界である。