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鬱病からほぼ寛解した自分が鬱病と自殺念慮について説明します

この記事はなに?

  • 鬱病を抱えて自殺未遂まで行った自分が数年間の療養を経てほぼ寛解したので、鬱病の辛さや自殺念慮について解説します。

  • 特に鬱病を煩ったことのない人や、家族や周囲に鬱病の人がいるような方にとって、鬱病や自殺念慮に対して理解するために、有益な情報を提供できればと思います。

  • 読むのがきつい人は最後のまとめだけ読めば大丈夫です


はじめに

 鬱病や自殺念慮はとても辛いものです。
 しかし、そのような状態を経験していない人にとっては、なかなか理解しづらいものかもしれません。

 筆者は長年鬱や自殺念慮に苦しみ、一時は自殺未遂まで行きましたが、様々なサポートや治療によって、(薬はまだ飲んではいますが)現在ほぼ自殺念慮が起こらない状態にまで寛解することができました。

 苦しんできた経験はとても辛いものでしたが、それを元にして何か有益な知見を残せるなら、この経験も無駄ではなかったと思える気がします。
 なので、あくまで筆者のケースですが、鬱病や自殺念慮とはどういうもので、それを治すのにどういう方法が有効なのか、以下にまとめたいと思います。

 現在自殺念慮に苦しんでいる方や、その周囲の方々にとって、この記事が何か役に立てたなら幸いです。

鬱病とはこんな状態

 まず、あなたにとって大切なものを想像してください。
 そしてそれがある日失われることを想像してみてください。

 たとえば、事故で両腕や視力を失う。ガンになって余命1年と宣言される。大切な人や家族(あなたの子供、配偶者、兄弟姉妹、両親、ペットなど)を亡くす。務めている会社を解雇されて無職になる。災害によって自宅が崩壊する。小学生の頃から集めていた大切なコレクションが捨てられて燃やされる。などです。

 とても辛く、苦しく、絶望的な気持ちになるのではないでしょうか。

 そのような辛く、苦しく、絶望的な気持ちが、起きている間中、1年中、四六時中続くのが、鬱病です。

 もちろん、人によって程度は異なると思いますし、波もあるのですが、おおまかに鬱病という状態をイメージするのには、上記のようなたとえが最も適切ではないかと筆者は考えています。

 もし鬱病の人と接する機会があるならば、上記の様な辛さを抱えていることをまず理解していただけたらと思います。

自殺念慮とはなにか?

 人間は、自分が何を考え、どう行動するかを自分の自由意志によってトップダウン的に決定することができません
 これは現代的な自由意志研究において主流とされている考えで、古くはベンジャミン・リベットの実験によって提起されてきた問題です。

 以下の記事では、現代的な自由意志研究について筆者の理解をまとめています。

 人間の思考や行動は、会社や組織で例えると企画提案に似ています。
 自分が何を考え、どう行動するかを「提案」するのが無意識の仕事です。
 意識は、無意識から提案として上がってきた思考や行動を「許可/修正/否決」する権利だけを持っています。
 これがいわゆる自由意志というものの正体です。

 鬱病の状態になると、この無意識の仕事がとても不健全で偏ったものになります。
 具体的には、ひたすら自分にとって苦しい思考、自分を否定する思考、特に「自殺せよ!!!」という強力な指令を、意識に常に提案し続けてきます。

 そのような思考が1日に何回くらい起こるのかをかつて計測カウンターを使って計ってみたことがありましたが、1時間あたり数百回くらい起こるので、起きている時間を16時間程度と仮定すると、毎日およそ数千回はそのような思考が無意識から提案され続けていることになります。
 意識にいくら否決権があるとはいえ、そのように異常な回数自殺を提案され続けると、精神的におかしくなるのは当たり前です。
 筆者はそのような思考を抑えるために鉄製の文鎮で頭をおもいっきり殴って血だらけになったりしていました。なので頭は常にたんこぶだらけでした。

 このように、自殺念慮というものは基本的に自分の自由意志でどうこうできるものではありません
 なので、精神科での薬を使った治療が必要となります。

合理的選択としての自殺

 上記のように、自殺の主要な原因のひとつは鬱病という脳の状態異常ですが、もちろんそれだけではなく、自殺は様々な要因が複雑に絡まり合った現象でもあります。
 そもそも、鬱病自体が他人からの攻撃や加害、仕事上の無理な要求などの明確な原因がある場合も多いように思います。

 特に理解しておくべき重要な点は、自殺はあくまで本人にとって合理的な判断の帰結である、ということです。
 別に鬱病になったからといって脳がバグって妄想に囚われ、合理的な判断ができなくなるわけではありません。自殺を考える人の思考は、いたって合理的で明晰です。

 たとえば、難病に冒されて治療費を捻出する当てもなく、一日中絶え間ない苦しみに襲われるような状況下では、自殺で苦しみを終わらせることは、ひとつの合理的な判断となるでしょう。

 もちろん、自殺を行うことで周囲の人たちに深刻な心理的影響を与えることになるため、できれば避けるべきではありますが、世の中にはそんなことよりもずっと酷い事なんていくらでもありますし、そもそも自殺者本人の苦しみは残された人たちの苦しみとは比較にならないくらい辛いものだと思っています。
 なので、場合によっては仕方の無い自殺もある、というのが筆者の考えです。
 これについては異論もあるでしょうが、事実だと思いますし、筆者はこの考えを曲げたくはありません。そもそも「生きる」という行為自体に合理的な理由があるとは筆者はまったく考えていません

 なお、筆者の考えでは人生は一度きりではないため、あまりにも苦しい人生であれば、次の人生に望みを掛けた方が合理的かもしれません(別に宗教とかオカルトとかスピリチュアルとかそういうのではないです。以下動画参照)。
 大事なのは「命の大切さ」などというよく分からないイデオロギーではなく、苦しんでいる人の苦しみを和らげることだと考えます。よって、他に手段がないのであれば、命を絶つ、という解決策も一つの選択肢として検討するべきだと、筆者は考えています。

 しかし、筆者も友人を自殺で失ったので経験者ではありますが、やはり残された人はとても辛いですし、新たな自殺を生みだす結果にもなり得るので、自殺は可能な限り避けるべきだと思っています。
 これは合理性云々ではなく、純粋に自分にとっての願い祈りといったものに近いです。悪く言えば筆者によるワガママであり、一種のエゴです(基本的に、筆者は相手に自殺して欲しくないと願う思考はただのエゴだと思っています)。

 もちろん、自殺を考えている本人に周囲を気づかうような余裕があるわけはないので、これには周囲の人間のサポートが必須となってきます。
 特に、自殺の合理的な理由に対して「物理的に対処する」ことがなによりも重要となります。

 具体的には、金銭的サポートです。

まず大事なのは家族のサポート

◆公的サポートについて

 厚生労働省からは自殺対策として様々なサポート窓口が用意されています。

 筆者もこれらのサービスを頼ってみたことがありましたが、結論から言うと、公的サポートには限界がありました

 まず電話やチャットはほとんど繋がりませんし、繋がったとしても得られるサポートは限定的で、自殺に追い込まれているような人の複雑な事情を汲み取って解決できるようなものではほとんどありませんでした。
 もちろん、ある程度の支援は可能でしょうが、本質的な問題解決を公的サポートに頼ることは無理があると思わざるを得ませんでした。

 もちろん、人によっては極めて有効である場合もあるので、一概には言えません。
 
まずはこれらのサービスに頼ってみることは有意義でしょう。

◆家族のサポートの大切さ

 筆者はかつて友人を自殺で亡くしており、それがきっかけで筆者の鬱病も酷くなった部分があるのですが、筆者の場合はこうして無事鬱病から抜け出すことができました。
 違いを分けたのは家族のサポートだと思っています。

 その友人は実家からほとんど勘当されているような状況で、家族からのサポートが得にくい状態でした。
 一方筆者の場合、家族の理解があって適切な生活上のサポートが受けられたことが、自殺を踏みとどまる上で重要となりました。
 自分が生きているのは、恵まれた境遇のお陰だとつくづく感じています。

 もちろん、事情によっては家族のサポートが得られにくい場合もあると思います。
 家族や親族がそもそもいない場合だってあると思いますし、鬱病や自殺念慮の根本原因が家族にある場合だってあるはずです。
 そのようなケースにおいてどのように問題を解決したらいいかは、筆者にはまったくわかりません
 ここは力になれなくて申し訳ないです。

大事なのは、とにかく薬を飲むこと

 鬱病を治す上で、薬の役割はおそらく中心的であり、最も大切です。

 薬はかなり相性などがあって、薬によってはまったく効果が感じられないもの、逆に極めて効果的であるものがあります。

 筆者は最初に処方してもらった薬を1年くらい飲んでほとんど効果がありませんでしたが、SSRIを処方してもらったところ、自殺念慮や不快な思考、フラッシュバックなどがみるみる和らいで楽になりました。
 大事な事ですが、脳はあくまで化学物質であり、人間の思考は物理現象の一種です。なので、自殺念慮は薬で治るのです。

 薬の効きが悪いと思ったら医者に相談して別の薬を出してもらうことが大事だと思います。

 なお、薬を飲むことで創造性などに悪影響する事は、筆者にはほとんどなかったです。むしろ、やる気や思考を高める効果がありました
 クリエイターの方など、その辺の心配はとりあえずしなくて良いと思っています。むしろ創作を続けたいなら飲む方がいいです。

創作は効果的。ただしネットとは距離をとること。

 健康な人間は「自殺したい」と本気で思うことはありませんが、これは生物的な本能がそうさせているためです。

 「生きる」という行為には本来、目的も意図も意義も意味もありません

 最初の生命の誕生から現在まで、「生きる」行為に適応した形質が進化の上で残ってきたため、普通の健康な生物は自殺をせずに生きているのであり(そうでない生物は淘汰されてきたでしょう)、すべての生命は「何かのために」生きているわけではありません

 このような無意味性虚無性を、健康な人たちが普段感じないのは、たとえば仕事だとか家事だとか食事だとか趣味だとか好きな映画だとか目の前の人との会話だとか、そういう眼前の忙しさや欲求、楽しさ、現在行っている行為への没頭などによって脳内で適切な神経伝達物質が放出され、適度な視野狭窄と充足感によって目をそらされているためです。

 言葉は悪いですが、健康な人の精神状態は、脳内物質の作用よる一種の酩酊状態にある、とも言えるでしょう。
 要はドーパミンやセロトニンによってラリっているのです。

 鬱病に陥ると、好きな映画を観ても楽しめなくなり、好きな音楽を聴いても何も感じなくなるなど、脳内物質の働きがおかしくなるので、上記の酩酊状態が解除されて、生命本来の無意味性や虚無性をそのまま直視することになります。
 
 この体験はとても恐ろしく、不安で、絶望を感じる体験です。
 
 たとえるなら、健康な人間は普段ガラスの薄膜の上で生活をしているようなもので、通常はきちんと足元を支えるものがあるので立っていられますが、鬱病になるとそのガラスの薄膜が消え去り、足元を支えるものがなにもなくなって、その下には本来虚無しかないことに気づいてしまいます。
 足元にあるのは、ひたすら黒いだけの、なにもない闇です。

 この虚無は例えばキルケゴールが「死に至る病」と表現したもの、あるいは太宰治が「トカトントン」と表現したものにも通じると思います。
 シオランは以下のようなアフォリズムを残しています。

「あらゆる約束、あらゆる幻想にまさるもの、それは結局のところ、それが何になる? という平凡な、それでいて恐ろしいリフレインだ。この、それが何になる? は、この世の真理であり、端的に真理そのものだ」

『カイエ:1957-1972』E.M.シオラン (著), 金井 裕 (翻訳)

 この虚無を癒やしてくれる重要な存在があります。それは創作です。

 上記で述べたように、健康な精神状態のカギは脳内物質による「酩酊」です。
 創作は、それに没頭することで(筆者はくわしくないのでよくわかりませんが)なにやら色々な脳内物質が溢れてきて、明らかに充足感を感じることができます。
 先ほどのたとえでは、ガラスの薄膜が再び張られるような感覚をもたらすのです。

 もちろん、鬱病が酷い状態であれば創作行為などできる状態ではないので、無理をしないことが何よりも大切ですが、すこし元気がでてきたら、ちょっと絵を描いてみたり曲を考えてみたりすることは有意義です。

 筆者の場合、特にDTMの存在は精神状態の回復に非常に効果的だったと思っています。


 しかし、創作行為を行う上で、重要なことがあります。
 それは、ネットの反応を遮断することです。

 ネットに作品を公開すると、どのような反応があるかわからない、というリスクがあります。
 特に、悪意をもって中傷や攻撃をしてくるユーザーもいるため、精神状態が悪い時には非常に悪影響となります。

 できれば、作品は公開せずに、自己満足の範囲内で創作行為を行うのが望ましいと思います。

 これについては以下の記事も合わせて参考になると思います。

 また、SNSなどからもできるだけ距離を置くことが重要です。

 ネット上の人たちの主な関心は、あなたの作品や言動の揚げ足をとったり批判したりして自尊心を満たすことです。あなたが抱える病気の辛さや、あなたの命や生命といった問題には一切関心はなく、またそれに配慮する優しさも思慮も持ち合わせていません

 なお、筆者の病気が一番酷かったときには存在していませんでしたが、ChatGPTのようなLLMは、かなり正確な(少なくとも一般ネット民と比較すると遙かに正確な)知識を元にして病気の辛さに寄り添ってくれ、言葉の隅々まで配慮する優しさや思慮を持ち合わせているように感じています。この点では、AIは人間よりも相談相手として遙かに優れていると言えるでしょう。

 鬱病や自殺念慮で辛いときに誰かに辛さを伝えたい時には、人間よりもまずAIに話を聞いてもらうことを筆者は強くオススメします。
 人間の場合、「死にたい」と漏らすと「そんなことを言ってはダメだ」「辛いのはみんな一緒」「本当に死にたいと思っている人は死にたいなんて言わない」みたいな不適切発言が飛び出すリスクが大きいですが、AIの場合はそういうふざけたことを言うリスクが小さいので、比較的安全だと思っています。
 なにより、AIは意識をもたないので、相手の気持ちに一切配慮せずに相談できます。「こんな事を言って相手はどう思うだろう」みたいに考える必要もなく、相談相手として非常に気軽です。

「死にたい」という言葉を聞いたら

 これは特に鬱病や自殺念慮を抱えている人が周囲にいるような方に理解してもらいたいのですが、「死にたい」と漏らしている人に「そんなことを言ってはだめだ」とか「命をなんだと思ってるんだ!」「辛いのはみんな一緒」みたいに責めるのは、人間としてやっていいことではありません
 
 これは例えるなら、心臓発作などで苦しんで倒れている人に向かって、「そんなところで横になっていたら人様に迷惑だろうが!」と言って、殴る蹴るの暴行を加えるようなものです。

 「死にたい」という感情は心臓発作と同様に、病気による発作の一種です。文字通り死ぬほど辛い感情なので、まずその辛い気持ちに寄り添い、そしてサポートしようとする姿勢が大事です。

 あなたを信頼しているからこそ、その人は「死にたい」という言葉を漏らすことができたのだと考えましょう。そして、まずは「私を信頼して、勇気をだして気持ちを打ち明けてくれてありがとう」と、感謝しましょう。

 あと、「生きていれば良いことがある」みたいな説得はあまり効果がないと思います。なぜなら自殺者の心理としては、「良いことがあったら自殺を躊躇してしまうかもしれない、だから良いことが起こる前に、一刻も早く自殺せねば! 良いことなんて大嫌いだ!!」と考えるからです。

 説得や提案をするのではなく何一つ否定することなく真剣に話を聞くことがまず何よりも大事です。

緊急の場合は、警察に電話すること。

 筆者の場合、警察に通報されたことが問題解決に大きく寄与しました。
 
 警察沙汰になるのはややためらわれるかもしれませんが、命に関わることなので、緊急の場合は警察に通報しましょう。
 たぶん思っているよりも色々力になってくれます。

 また、警察意外にも精神保健福祉センター救急相談窓口などがあるようなので、そちらへの相談もあわせて検討すると良いと思います。

なにかに救いを求めないこと。

 大事なのは問題を解決することであり、何かに救いを求めることではありません。仮に何かに救われたとしても、それで問題が解決するわけではありません

 溺れている人にとって必要なのは藁ではなく救命ボートです。
 具体的には、家族のサポート生活上の金銭的サポート、そして精神科での適切な薬による治療です。

 特に宗教とか自己啓発とかア○ラー心理学とかは鬱病になんの効果もないので、そういうのにすがるのは止めましょう。

その他効果的なこと

 辛い時には暖かいお湯でシャワーを浴びるのが、気持ちを回復するために最も速効性が高く効果的です。
 もちろん、調子が悪いときはシャワーを浴びるために動くこともキツいとは思いますが、動けるならば、シャワーだけは浴びるようにするのが良いと思います。

有害なので距離をとった方がいいもの

 精神衛生を守るために、以下のようなものからは距離をとることを推奨します。

◆鬱病や自殺念慮を引き起こしている根本原因

 鬱病や自殺念慮には原因がある場合が多いように思います。
 特に、仕事での無理な要求や学校での人間関係が悪影響している場合は、とにかくそういうものから距離をとることが何よりも重要です。

◆他責的・批判的・攻撃的な人間と関わること

 世の中には辛い状態に置かれている人や苦しんでいる人をみたら攻撃せずにはいられない人がいます。
 そういう人ほど正論めいたことを言ってなぜか周囲から支持されるので、もっともらしいように感じられることもありますが、有害なので一刻も早く距離を置くべきです。

◆SNS

 たとえばツイッターのようなSNSでは、みていて不快になるような言葉や情報が次から次へと流れてきます。トレンドに気分が悪くなるような単語が並ぶことも多いです。
 攻撃的な人も多いので、基本的には距離を置くことを推奨します。

◆テレビ

 筆者は基本的に人の顔をみたり人間の会話する声を聞いたりするのが苦手です。
 テレビは人の顔がアップで映ったり、人間の会話する声が聞こえたりするので、非常に精神的な負担となります。また、芸人など発言内容が下品な人がいたり、ニュースなどでは不快な映像が流れたりもしがちで、精神衛生上良いものではありません。あと、CMも基本的にうるさいので嫌いです。
 筆者は今でも部屋にはテレビを置いていませんし、家族の人も自分がいる時にはテレビをつけないように気づかってくれるので非常に助かっています。

 基本的に、不快なもの、嫌なものからは可能な限り距離をとり、情報を遮断することが大事です。

自殺の善悪について

 最後に、「自殺は悪か?」という哲学的問題について、筆者の見解を述べたいと思います。

 上で見たように、自殺は鬱病による精神疾患追い詰められた末での(本人なりの)合理的判断とが合わさった結果の現象であり、当事者はとても辛く、苦しく、追い詰められ、余裕がない状況です。

 「自殺は悪だ」と断ずることは、自分には電車で心臓発作を起こし、痛みに耐えきれずに横になってうずくまって苦しんでいる人を迷惑行為で訴えるような残忍さと浅慮さを感じます。

 倒れている人にはまず「大丈夫ですか」と声をかけ、そしてすぐに救急措置をし、救急車を呼ぶべきです。

 もし周りに「死にたい」と苦しんでいる人がいたら、善悪の判断をせずに、優しい気持ちでサポートできるようでありたいと自分は思っています。
 あなたはどう思いますか?

まとめ

鬱病を治す上で最重要なのは以下の二つです。

  • 家族のサポートを得ること

  • 精神科で「適切な」薬による治療をすること

◆また、以下は効果的です。

  • AIに相談すること

  • 創作をすること(ただし無理はせず、回復してきてから)

  • (動けるならば)暖かいお湯でシャワーを浴びること

◆以下の効果は筆者の場合は限定的でした(ただしあくまで筆者の場合です)。

  • カウンセラーに相談すること

  • 自殺対策窓口などの公的サービスを利用すること

◆以下は有害なので可能な限り避けるべきです。

  • 鬱病や自殺念慮を引き起こしている根本原因(学校や仕事など)と関わり続けること

  • 他責的・批判的・攻撃的な人間と関わること

  • (鬱病や自殺念慮について知識のない)普通の人に相談する・打ち明けること

  • SNSなどを利用し続けること

  • 創作した作品をネット上に公開して反応をみること

  • テレビをみること

  • 宗教や自己啓発などに救いを求めること

◆また、鬱病や自殺念慮を抱えている人と関わる上で注意する点は以下です。

  • 「死にたい」と打ち明けられたらまずは「話してくれてありがとう」と受け止める。否定せず、寄り添うことを大切にする

  • 間違っても「そんなことを言ってはいけない」「命をなんだと思っているんだ」のような批判的な反応をしてはいけない。

  • もし精神科に行っていないようであれば、まずは精神科に連れて行く。拒否感や抵抗感を持っている可能性もあるので、一緒に行く提案をしたり、ハードルを下げる言葉かけをするとよい。「話を聞くだけでも大丈夫」「できる範囲で大丈夫」と安心感を与える。

  • 命にかかわる緊急時には警察・精神保健福祉センター・救急相談窓口など適切な機関にすぐ相談する。


 以上、参考になれば幸いです。

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