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東京に暮らす息子へ⑪

結局、ヨネコはオムレツを作ることができなかった。
「ゴボウの煮物も美味しかったし。唐辛子とごま油が効いてた」
「ありがと。ごはんにぴったりかなー、と思って」
「納豆も卵で巻くと美味しかったね」
(巻いた?卵?)
「あ、そうだったかな?そうかもね、美味しかったよね!」
早苗が後始末で作った納豆の卵焼きのことは、ヨネコは覚えていない。強く興味を持って体験しなければ覚えていられないのが今のヨネコ。
「お母さん疲れてるね」
早苗が声をかける。
(疲れてないけど…なんだかわかんないのよね…心配されているんだか邪魔されてるんだか…怒られてもいるような…私は間違ってないよ、たぶん)
「そうかなぁ…そうかもしれないねぇ」
「布団出しておいたからね」
「ありがとね、一朗太ごはん食べた?」
「食べたよ。今お風呂入ってるから」
(覚えてないか…味噌汁は今夜は美味しかったよね)
「そうなんだね、よく帰ってこれたね」
「そこにおみやげあるから」
「なに?旅行?」
「違うよ、東京から帰ってきたの」
「あ、そうか、そうだったそうだった」
「お母さん、先に寝て。私、お父さんのことで話があるから」
「うん、わかったよ。お任せしますね」
日々の会話の食い違いや明らかな認識の間違いも、いちいち訂正して話し合っていたら日常生活は送れない。
(お母さんだって辛いと思う、こんなの)
ヨネコは早苗に救われている。揺るぎない親への愛情と同時に冷静な観察力と自身の感情をうまくコントロールできる早苗の存在に。
「姉ちゃん、風呂も布団もありがと」
「どういたしまして」
一朗太は冷蔵庫から出してきたお茶のペットボトルを一気に飲み干した。
ヨネコがパチンコ屋からもらってくる小さいペットボトルがいくつも冷蔵庫に貯まっている。
「姉ちゃん、ごめんな」
一朗太は両手をテーブルに付いて頭を深く下げた。
「母さんも大変だったんだな」
「分かってくれればいいよ」
「父さん、どうしたらいい?」
「あなたはどう思う?」
「オレは姉ちゃんに任せたい」
「それは嫌」
「姉ちゃんの決めた通りに動くよ、なんでもする」
「ダメ」
「なんで?」
「決めることが負担なのよ」
前田五朗の最期の場面を1人で決めることはしない。早苗は強く決めていた。
「あなたが決めてみなさい」
「えっ、オレ?」
「今、現在、あなたはどうしたいか、お父さんを」
早苗は15歳で姉の最期を看取った。
まだできることがあると聞いていたが、我が家の経済や母の頼りなさ、姉の容態をみると早苗はあの判断しかできなかった。
「息が、苦しくないように、してください」
医師は麻薬を使いますとか、酸素をもっととか、説明したり看護師と話したり、忙しそうだった。
神様だか仏様だったか、姉の手を握って祈るばかりだった。
(姉ちゃん死んだら私のせいだ)
姉が生きるも死ぬも、息が苦しかったら身が保たないだろうと思った。痛いところは無さそうだから、息さえできれば。苦しくなければ。
(姉ちゃん死ぬな!姉ちゃん死ぬな!)
母も父も最期まで病室に現れなかった。
ヨネコは息を引き取ったばかりの娘の枕元で、前田五朗が若い女といたこと、悲しくて腹が立って夜の街をさまよって泣いたことを早苗につらつらと語った。早苗への労いも謝罪も、死んだ娘への思いも口にすることなく、前田五朗とヨネコの関係を嘆いた。
「オレは、母さんが父さんの介護をするのは難しいと思う」
一朗太は言った。ヨネコの立場で言った。
「それで?」
「だから、母さんには無理だろ」
「だから?」
「そういうことだろ!無理なんだよ」
「お父さんは?」
「親父?」
「お父さんの気持ちは?あなたはお母さんの気持ちはわかってるのよね?慮ってるのよね?じゃあ、お父さんは?私は?あなたは?」
「それは…」
「一朗太は、一朗太の考えがあるでしょ?」
早苗はいつか病院の相談員に聞かれたことがある。「あなたはどうしたいか?」と。
「私は、お父さんが泣きたいくらい家に帰りたいと思ってることがわかってるの。一朗太は、お母さんがお父さんの面倒をみることは大変だしできないだろうって思ってるのよね?」
「そうだよ、親父は姉ちゃんの言うとおりだと思うよ」
「じゃあ、一朗太は?どうしたいの?」
「オレ?」
一朗太は、自分が親の高齢期をどうしたいか考えたこたもなかった。病気なら病院、うごけなうなら施設、しかないのではないかと思っていた。
「そもそも胃ろうなら病院じゃないの?手間もかかるし」
「自宅でも施設でもできるんだよ」
「自宅なんて…無理だろ。母さん覚えられないだろ」
「母さんがやるんじゃないよ」
「姉ちゃんやるの?」
「介護保険のサービス」
きょとんとした一朗太に、早苗は言い放った。
「給与明細みてごらん、引かれてるものがあるはず」
訪問看護でも訪問介護でも。お泊りも通いの保育園みたいなサービスも。ベッドも車いすもみんな介護保険で利用ができる、自宅で点滴や治療もできると早苗は一朗太に話した。
「あなたの給与から引かれてるものでまかなわれてるんだって。ケアマネさんから聞いた受け売りだけどね」
早苗は思う。こんなこと誰も知らないよ、と。早苗も親の介護がなかったら知ることもなかった法律や制度。知らないことはないことと同じ。知らなければ、一朗太と同じ。
「病気なら病院、動けなかったら施設。じゃあ、ただ歳をとって死んでいくまでだったら?」
一朗太はまだきょとん、のままだ。
「ごはんが上手に食べられなかったら?」
きょとん。
「お風呂の縁、跨げなかったら?」
きょとん。
「トイレに間に合わなかったら?」
一朗太が、母親のいない台所の暗闇を焦点の合わない両眼で見ている。
「親父、家に戻そうか」
一朗太の独り言のような響きだった。
「オレが親父だったら、戻りたい。戻してくれって言うと思う」
「あんなダメ親父なのに?」
早苗が聞いた。
「親は親だよ。オレがここまで生きてこれたのは親父と母さんの苦労があったから…だから…子供育ててみてわかったんだ…赤ん坊って親がいなきゃ1日も生きられない…子供なんて…愛してあげなきゃ…愛してあげなきゃ…」
一朗太が泣いている。早苗と話しているうちに、人生を振り返っていた。
「泣くな、一朗太」
「泣いてねーし…うるせぇなぁ…」
「で、どうする?」
「母さんの認知症のこともあるから、オレは自宅と施設を行ったり来たりで様子を見たい」
…つづく…




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