野井戸涼

野井戸涼

最近の記事

コラム⑤

先日、友人から連絡がありランチに出かけることになった。 年齢が近く置かれた立場も中間管理職で悩み事を共有する数少ない人物。 私にしては珍しい心を開ける女性だ。 彼女は、上司がある特定の現場だけ複数年にわたって改善提案の受付や退職者が後を絶たないことへの対応を怠っていることに関して憤りを感じているという。 正義感が強いのは学生時代とかわらないなぁ、と頼もしくさえ思うのは、私がすっかり世間に馴れ過ぎて感度が落ちているのかもしれない。 ピザがテーブルに届いて、アイスティーの2杯目を

    • 東京に暮らす息子へ⑧

      前田五朗の長男は母親から聞く父の病状を頭の中で整理してみた。 (こんなことは私情を挟まず客観的に時系列で整理すれば簡単なことだ) 母親の言葉は常に感情的で、何の裏付けも展望もないと常々思っていた長男だが、ここまで判断力がないものかと自身の親に落胆していた。 長男はまたこうも考えていた。 (医療費は高額ならば控除もあるだろうし、実家は金もないだろうから病院に入院させてもらえばいい。何を迷う必要があるのか。自宅に帰るなんて病院も無責任である) 家庭や環境の事情で入院に値しない症状

      • 東京に暮らす息子へ⑦

        誰が前田五朗の意向を代弁するのか。 長女の最期を経ても、尚妻はその役割が自身にもあることを意識しないでいた。 妻にある思いは、今現在にしかない。過去を踏まえて未来を想像することが、妻にはない。今、家に病の夫が戻ることは彼女にとって厄介な困りごとである。ただそれだけなのだ。 筆者は考える。 これが人々の現実であり、多くの介護者が気持ちや経済的な見通し、目処が不明状態で余裕がないまま意思決定を迫られる。 配偶者の代弁を本人の意向を踏まえて行えるのは、夫婦仲や家族仲が良好であること

        • コラム④

          2人の青さというか直向きな姿を愛していたんです。 ガラスのように繊細な2人の関係とか、うぶで不器用な姿が忘れられません。 あれからもうじき1年になります。 大人になるって、やっぱりほろ苦いです。 でも、みんな究極の選択をして、大人になっていく。 人生ってままならないものです。

          コラム③もう一度食べたい

          今年の健康診断の結果が届きました。 若い頃は健診で身体のデータを取られるのが楽しみで、血圧が低い自慢とか医師がおじいさんかお兄さんか?とか、採血の看護師が去年より上手とか。そんなことばかりお喋りしてたような気がします。 レントゲン車が会社の広場に停めてあって、半日くらいで100人くらいの社員が検査してもらっていました。 あれから何年も経ちまして、私の胃袋はどんどん…老化、とはならず拡大といいますか、拡張しているのです。 チャーハンなら2人前に大ぶりの餃子1皿は余裕です。 サッ

          コラム③もう一度食べたい

          東京に暮らす息子へ⑥

          ヨネコは長女が死んだ日を振り返ることができないでいた。思い出したくないのではなく、思い出せないのだ。 風邪をひいたとばかり思っていた。熱が高くて食欲もないという。市販の風邪薬を飲み、2、3日寝ていれば治ると思った。 病院に連れて行った時には、もう肺の半分以上が機能していないと言われた。 そこまでしか思い出せない。 とにかく長女は死んだ。 今は悲しかったのか、苦しかったのかもヨネコは思い出せない。 スナックに入り浸る前田五朗を迎えに行ったら、スナックにいなかった。 夫を探してい

          東京に暮らす息子へ⑥

          コラム②

          ちょっと暗い画像なんですけど、カツカレーです。 カレーライスって平和じゃないですか。 それにとんかつがのってるんですよね。 昔、かなり昔に談合坂サービスエリアの上りに、レストランがあったんです。 大好きな父と同じメニューが食べたいとせがむと、「今夜は特別」と言って父が注文してくれたのが、生まれて初めて食べたカツカレーです。 銀のお皿にライスととんかつ(カツレツ)が盛られていて、銀のカレーポットから父がちっちゃいお玉でカレーを掬ってごはんととんかつにたらたらたらぁーとかけた。

          東京に暮らす息子へ⑤

          妻と次女はこれからの前田五朗の暮らしについてあれこれと落としどころのない会話をくりかえしていた。 さっき東河瀬医師から言われた選択肢は、どれも前田五朗の命を左右するものだ。 しかし、妻にはピンとこない。 とにかくまた介護が始まると思うと死んでくれたほうがどんなに楽か。しかも病院で死ぬなら尚けっこうではないか。 前田五朗の妻、ヨネコはあれほど睦まじく暮らしたパートナーを思いやる余裕がない。 飲み代欲しさに50歳を過ぎて医療保険を勝手に解約した。返戻金は1週間も経たぬうちにスナッ

          東京に暮らす息子へ⑤

          東京に暮らす息子へ④

          食事を飲み込んでも前田五朗はすべての食物を胃袋に送り込めなくなっていた。 飲むと気道を塞いでくれる弁が丁度よく閉まらない。 食道に流れるもの、気管に入っていくもの。咽てくれればいいけれど、前田五朗は咽もしなくなっていた。 呼吸は苦しくなり、血中酸素飽和度は80%を切る。下顎を前に突き出してしゃくっている。食事のたびに残渣物や気道に入った食物などを吸い出すために、看護師が喉の奥まで管を突っ込む。 ゴロゴロゴロ…と呼吸に合わせて痰が行ったり来たりしている。 ブブブ…じゅぶぶぶぶび

          東京に暮らす息子へ④

          東京に暮らす息子へ③

          ヨネコが家に戻ると、前田五朗の介護用ベッドがほぼ垂直にギャッチアップされているのに気づいた。 (あれ?) 掛け布団と薄手の綿毛布がくちゃくちゃになったままフットボードにだらしなくかかっている。 食べこぼしやよだれで変色した枕はベッドの下に落ちていた。 (こんなの私のせいじゃない) 次女が見たら何を言われるかわからない。早く片付けるに限る。しかし、一緒に病院を出たのだから、次女もそれほど時間を置かずに実家に到着するはずだ。 9月28日土曜日。20時を過ぎた頃、前田五朗は夕食後

          東京に暮らす息子へ③

          東京に暮らす息子へ②

          呼吸器内科の東河瀬医師がCOVID-19感染後の入院経過を次女と妻に伝えたのは昨日だった。 インフォームドコンセント。 「それじゃあ、IC始めますねー」 看護師が診察室の扉を閉めながら、慣れた身のこなしでササッと丸イスを最適な位置に揃えた。右手でイスを指して座るように、と次女と娘に視線を送る。 「いやぁ、私はいいですょぉ、皆さんこそぉーっ」 何を思ったか妻は看護師に丸イスを押し返した。 (はぁ?) 「奥さん、座ってください」 「ええーっ、そんなそんな、ご心配なくぅー」 (うそ

          東京に暮らす息子へ②

          東京に暮らす息子へ

          ようやく木々の葉が黄色くなり始めた2024年11月1日。 75歳の男が人生の岐路に立たされているのを傍観する。 パーキンソン病で歩くこともままならず、食事をとることも他人の手を借りるようになってしまった。 男は思う。 「こんなはずじゃなかったけどな」 女のコに囲まれてスナックのソファーでニヤリとしながらサントリーオールドより高いリザーブのキープをしてご満悦の俺。 この男の名前は前田五朗。 今、筆者は前田五朗の次女から前田五朗の命の終い時の相談を電話で聞いている。堂々巡りを8回

          東京に暮らす息子へ