東京に暮らす息子へ⑨
ケアマネジャーはヨネコがどこまで自宅で介護できるかと早苗に聞いた。
「母は、たぶん続けられないと思います」
ならば2つの選択肢を退院までに準備しなければとケアマネジャーは電話を切った。
退院前の関係者会議は3日後。長男には帰ってきてもらおうと早苗は考えていた。
(きっとお母さんは決められない。お兄ちゃんに決めてもらいたい。私はもう限界)
長男は会社に介護休暇を申請した。上司は快く休暇の届けを受けてくれた。
ソワソワと長男の帰りを待つヨネコに反して、早苗は憂鬱な気持ちをぐっと押し殺していた。
22時到着の高速バスは静かにターミナルへ滑り込む。
東京ばな奈の包を5つと、1週間分の下着とシャツが入ったリュックを棚から下ろし、長男の一朗太は「ふぅっ!」と周りに聞こえるほどの声で息を吐いた。
明日は病院での会議である。
余計なことは言わず、単刀直入に核心を突いてやろうと一朗太は思っている。
「おう、サナが来てくれたのか」
「うん、遅いから私が迎えに来たのよ。お兄ちゃんこそ元気そうだね。よかった」
「まあな。しかし、女の相談員?ケアマネ?なんだか知らないけど振り回されてるんだろ?」
「はあ?」
「母さんが言ってたぞ。難しいこと言ってきて困るって」
「それはお母さんがもう理解力が落ちてるのよ。自分で考えられないのよ」
「そんなわけないだろ。母さんは年寄りじゃないんだから」
一朗太は鼻で早苗を笑った。
「お兄ちゃん、お母さんはもうおばあちゃんなのよ!いつまでもお兄ちゃんが大学生の頃のままじゃないのよ!」
一朗太は黙った。早苗の大声に覚醒させられたような気がした。
しかし、一朗太は。母がそんなに弱っているとは思えない。現に「いっくん、私の心配よりも家族を大切にするのよ。でないとお父さんみたいな人間になっちゃうんだからね。貯金もしなさい。無駄遣いするんじゃないわよ」なんて、気の効いたことをスラスラと言っていた。それに、白菜キムチを漬けたから食べろって宅配便で送ってくれたけど、いつにも増して美味かったのに、と。
「この間、母さんが送ってくれた白菜キムチ、去年より美味かった」
早苗は一朗太の顔を覗き込んだ。
信号が反射して色白の頬が緑色の一朗太。
「バッカじゃない?お兄ちゃん」
アクセルをぐっと踏み込むと、一朗太は「おいっ、もっと安全に!」と早苗の肩を押さえた。
「だからお兄ちゃんは何にも知らないのよ!」
ヨネコが自身の力で白菜を漬けられたのは2年前までだった。
去年はもう体力がなく、白菜1玉を抱え上げることもできなかった。
今年は手首の骨を折って家事もまともにできない日が続いていた。
一朗太に送った白菜キムチはネット通販で購入してジッパー付きの袋に詰め替えた市販品だった。
それに、今年は浅漬けも煮物も何を作っても以前のような我が家の味にはならなくなってきた。
濃いとか薄いとか、何かを入れ忘れたとか、そういうこともあった。でも今は、何を作ったつもりなのか早苗には想像もつかない料理が食卓に置いてあることが毎週あるのだ。
「お兄ちゃん、昨日はね。たこ焼きをお皿に並べて、その上に生の青菜をちぎって並べてあったの」
「……えっ、……それは」
「お味噌汁の鍋の蓋をひょいと開けてみたら」
「な、なに?なんか入ってた?」
「5個入りのあんぱんの輪切りが浮かんでた」
「マジかよ…」
「マジよ」
「母さん、なんか試してたとか意図があったんじゃないの?ほら、ちょい天然なとこあるし」
「普通に加熱しないで青菜とたこ焼き食べてたよ」
「美味しくないだろう」
「美味しいって言ってた」
「強がってんじゃないの?失敗した!た思ってもカッコ悪いからさ」
「次の日にね、私は聞いたの。たこ焼きと生の青菜は美味しかったの?って」
「まずかった、そう言うよ?ふつうは」
早苗はニヤリと笑って一朗太を見た。
「覚えてなかった、その料理のこと」
一朗太は早苗が間違っている、嘘をついていると口から出そうになるのを何とか堪えた。
「あんぱんの味噌汁はどうなったと思う?」
「知らねえよ」
一朗太は不機嫌を装うしかないくらい、取り乱している。何度もシートの上で尻の位置を変えた。シートベルトを伸ばしたり縮めたりした。咳払いもしたし、髪を全部額のほうへ手櫛で持ってきてみた。胸の辺りにあるシャツのボタンを取れてしまうほど同じ方向へ回していた。
「私に注いでくれたわ」
「嘘だろ」
「温かいうちに食べろって。コーヒー淹れてくれたけど何日前のやつだろ?白いカビが浮いてた」
「早苗、いい加減にしろよ!ふざけるにもほどがあるぞ!」
「これから帰ればわかるわよ」
ヨネコの待つ前田五朗の家まで、兄と妹は無言を通した。
喋ったら、知ることになる。
聞いたら、確認しなければならない。
見たら、もう逃げられないような。
一朗太は迫りくる現実という壁に押しつぶされてしまいそうな圧迫感に耐えながら、早苗の運転する車に揺られていた。
(嘘であってくれ、バカな妹の見間違えであってくれ。頼む、母さん)
…つづく…