新型コロナ時代の文章修練とはいかなるものか。
追記:タイトル間違えてました。誤「いかるものか」→正しくは「いかなるものか」です。すみませんでした。訂正します。(投稿翌朝)
今日も疲れて椅子に座ってグッタリです。
頭が働きません。情けをかけてくれる人もいません。意気地なしです。
この地域はとても住みやすいです。住みやすいので、詩も絵も出来ません。
なんて書いても名言・名句にはなりようもないのです。
もっと格調高く書けばどうなるか実験です。
椅子に腰掛けてげんなりしてふと思ふ。
智を働かせるには少し元気が足りぬ。情を求めても与えられるとは限らない。意地を通すほどの根性はあるべくもなし。
とかくに悩めるほどこの世は住みやすい。住みやすさが高じると、詩も出来ず、絵にも描くことがない。
という文章では、うーむ、というところまでいかないですな。やはり、感興というか興の乗ったようなのでなくてはいけない。それも陰鬱さが文章全体に作用してレベルアップさせている、という手法を取り入れている必要がある。
そこでまた書き直します。
グッタリだ。
頭を働かせたいがこの身体では力が及ばぬ。情愛が欲しいが私のことを想ってくれる人などどこに居よう。意地を張る相手などどこの国に居られるのですか。
とかくにこの世は住みやすいと思っていた私が愚かだったのでしょうか。いいえ、住みやすいのが高じると、良いものもダメに思ってしまう。それではいけません、ポジティブシンキングでいかなくてはいけないのです。無闇に詩や絵を絶望感に苛まれるかのように使ってはなりません。詩は人に潤いを与えてくれる。絵は人を元気にしてくれる。それであって明日が、いや今日が、今このときが楽しくなるのです。
と、今度はちょっと説教じみてきて面白くはない。
そもそもの主題が西洋的のものを日本製品にしたのがいけない。だからどうしてもあつれきが生じて悩んでしまう。日本製品を作るなら、日本的な主題を選ばないといけないのです。
はて。と思いました。日本的なるものを追い求めて、文明批評に携わっている方々は、昨今あまり見かけません。いや、知らないだけですが、ガラパゴス化、という事でこと足りているような雰囲気であります。
しかし、スタンフォード大学式、オックスフォード大学式、ハーバード大学式、とかなんとか、本屋さんに行くと外国流は未だに健在です。東大式、京大式、というのがありはしますが、昔の帝国大學のような権威主義は排除されて、結果、やはり外国だよね、て感じです。
そこの点で私は経験不足があるのかもしれません。ですから、文章に、こう、揺るぎなさ、というか、他文化に立脚した自己の強さ、みたいなのが薄いのでしょう。
とかくにこの地域が住みやすいので、その必要性を感じないのは、いいようで悪いことのように思えてきました。詩を、絵を、そして文章を練るには、まだまだ修練が足りないのかもしれません。
といっても、今は新型コロナの時代。オンラインでそれらを肌身に感ぜられるまでに感性を研ぎ澄まし、オンラインで吸収するときがやって来ました。そんな訳で、登山すら叶わないながら、登山したような気分になる必要があるのです。ですから、外国に行ってなくても行ったような感覚になれる事が必要で、修練が足りないなどと言っていてはダメです。地元に立脚しつつ、世界中を駆け巡っている自己を確立せねばなりません。
そんな訳で、
山路を登りながら考えた風に考えた。
智に働けば角が立つようでは世界が不安定化します。情に棹させば流されるようでは心身喪失します。意地を通す必要があればコミュニケーション能力を磨くべきなのです。
自ら住みやすい世の中をつくるようにして、なんとか工夫しながら詩も絵も楽しみのために楽しみましょう。
新型コロナ時代のバージョンアップと称してその実、なんだか名句から程遠くなったのは申し訳ありません。
さあて、お盆の用意がまだ途中なので急いでやらないと!
最後までお読み下さりありがとうございます!
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