落語家と批評家の出会い
これは批評家・脱輪と落語家・桂健枝郎氏(のオルターエゴのふうらい牡丹さん)とのささやかな出会いの物語である🐦🦜🕊
落語家の桂健枝郎氏が『アメリカン・アニマルズ』についての文章を書かれているが、これは氏のオルターエゴであるふうらい牡丹さんと僕の出会いのきっかけを作った映画だ。
今でこそワレワレは同じ映画好きとして作品や監督について熱く語り合ったり対談企画を催したりするような仲だが、もともと二人の間にはなんの繋がりもなかった。
公開当時、本作についての評を読み漁っていた牡丹さんがたまたま僕が書いた評を読んでくれ、ファンになってくれたのがすべての始まり(と、本人が言ってるんだから大目に見てくれ!)
以来陰からそっと脱輪の活動を見守り続けていたのが、お茶代を始めたタイミングで思いきって参加してきてくれたのだそう。
そこから少しずつ交流を重ね、今ではすっかり僕の方が彼のファンだ(笑)
ちなみにこちらがその文章。
牡丹さんは広大な𝐈𝐧𝐭𝐞𝐫𝐧𝐞𝐭の海からこいつを掬い上げ「この人すごい!」と思ってくれたそうだが、正直僕自身はあまり気に入っていないというか、文章がお堅い上に内容が難しく、今読み返してみてもなにが書いてあるんだかさっぱりわからない(笑)
とはいえ、表現=expressionという特殊な営みの効用はここにあり、自分の中にあるなにかもやもやしたものをどうにかがんばって外へ押し出し(ex-pression)、なんらかのメディアを使って漂う時間の中に固定すれば、単なる一人よがりの妄想があっという間にみんなの共有物になるのだから不思議だ。
結果、作者が理解できないような作品を「おもしろい!」と言ってくれる人が不意に現れたりするのだから、人生も捨てたもんじゃない。
書き続けていてよかったとしみじみ思う。
それにしても、「本人と役者がともに本人役を演じることによって複数のリアルを物語る」という多分に精神分析的で演劇的なアイデアが採用された映画が落語家と批評家の出会いのきっかけを生んだというのも、偶然ではないような気がしてならない。
すべてのものごとは星座のように繋がり合い、きらきらと輝きながらわれわれの頭上を飾っているのだが、明るい昼間にはそれが見えない。
真っ暗な小さな部屋の中だからこそ見える、逆光の星座。
映画。
覗き魔たちが暗闇で取り交わす約束。
あるいは単に、それを「絆」と呼んでみてもいいかもしれない。
というわけで、元ツイートにある桂健枝郎氏の文章は脱輪の評よりよっぽどよく整理されており、本作が持つ魅力と恐ろしさが伝わる内容になっているのでおすすめです!
(そうか、あの後結局映画を撮ってなかったんですね、彼·····)