胃袋の反乱
イギリス、ロンドンに移り住んで今日で一ヶ月が経った。一度も行ったことの無かった島国は、予想していたのと少し違っていた。
前評判の悪かった食べ物は、多民族社会のためか種類豊富で美味しい。到着してすぐに雪が降って焦ったが、これは異常気象とのことでそれ以降は故郷の福岡よりも暖かい。英語は聞き取れるものの、思った以上に言葉が出てこない。人は礼儀正しく親切で、特に子供には非常な愛情表現を示して何かと親切にしてくれる。
拙い自分の英語にもどかしい思いをしたり、広大なスーパーにあふれる各国料理のチルド食品を順番に試したり、時にはミュージカルの活気に心打たれたりしているうちに、はや一ヶ月が過ぎていた。
時差ぼけは1週間ほどで収まり、やや夜型ではあるものの生活リズムは整ってきた
はずだった。暮らしのことも一応は形がついて、大きな不自由も無かった。五歳の娘も、「日本に帰りたい」という呟きで親の心を突くことも減り、店員や席を譲ってくれた人に挨拶だけはできるようになった。
少しずつまとまってきた新しい日常に不服の声を上げたのは、胃袋だった。私と、早くに寝入ってしまい夜中に目を覚ました娘は、空腹のために寝付けずにいた。もう夜半過ぎだった。重たいものを食べるのも気が引けた。
「お腹すいた」
と訴えて、新たに購入したイケアの小さなベッドの上に座った娘に私は、
「じゃあ、おにぎり食べる?」
と尋ねた。生まれて初めて食べた白粥に目を輝かせて以来、米食派の娘が断るはずもなかった。仕方ないなという口調で言った私も、永谷園のお茶漬けを食べようと心に決めていた。
急ぎ温めた冷凍ご飯で作ったおにぎりが冷めるのも待ちかねて、娘は海苔巻きおにぎりを無心に食べた。私はお茶漬けを食べながら、その様子をじっと見ていた。子供が夢中でものを食べる様子は、いつ見ても気持ちが落ち着くものだ。
壁の時計は深夜一時を過ぎていた。それが日本時間の何時であるのか、私はあえて考えないようにした。消化器官がまだ日本時間で暮らした名残を留めているのに、それが頭に伝わってはまずいように思えたからだった。
内臓の時差ぼけも、いずれは消えてゆくのだろうか。この先少なくとも一年はこの国で暮らす予定だから、よもや帰国まで続くとは思えないが、異国で深夜に食べたお茶漬けの味はしばらく忘れそうにない気がした。大きな握り飯を黙って頬張る娘の横顔も、いつかふと思い出すかもしれない。
体というものはままならなくて、自分のものであるはずなのに、まるで得体の知れない奇妙なモノのように思われることがある。しかし時には今度のようにちょっとユーモラスな動きをして、自分という人間を説明してくれることもあるようだ。
※「お茶漬けの味」という、成瀬巳喜男監督の映画が好きです。格差夫婦が主人公のストーリーも悪くないけれど、それ以上に主演女優の木暮美千代さんが大好きなので、彼女の魅力を堪能するためだけに時々観ます。
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