短編小説「光の糸」(その3)
スタジオのごく近くに小さな居酒屋がある。そこにアツシたちはよく顔を出していた。
「お、来たな。道楽息子たち」
五人が入り口近くの座敷に座り込むと頭を丸刈りにした小柄な主人が、調理場から大声で冷やかした。まだ六時前で外は明るいので店内に他に客はいなかった。開けっ放しの出入り口から残暑のくすんだ陽射しが店内に入り込んでいた。
「おやじさん、例によってひとり二千円の予算で適当に頼みます。とりあえずビールね」ヒロシが座敷からそのまま声をかけた。主人が頷いた。
すぐにビールと前菜が運ばれてきた。
「では五島さんに歓迎の意を表して乾杯」アツシがジョッキを高々と差し出した。全員がジョッキをぶつけあい、冷えたビールを喉に流し込んだ。
ボーカルがアツシ。谷崎篤史。
ベースがタモツ。新井保。
キーボードがアカリ。町田灯。
ドラムスがヒロシ。田中宏。
この四名に怪我で入院中のギタリスト、サブローを加えた五名がロックバンド<オーロラ>の構成メンバーだ。アツシが中心となり雑誌を通じて集めた。アツシが一番の年長にあたり、大学卒業後アルバイトをしながら何とか生計を立てている。他の四人は皆まだ現役の大学生だ。
アツシには在学当時からロックバンドを仕事にするという夢があった。自分にはサラリーマンも教職も向かないと最初から思っていたので、就職活動も一切しなかった。故郷の親や親戚の間ではそれこそ道楽息子と不評だったが彼は気にならなかった。いざとなれば何をやっても生きていけると考えていた。だから迷うことなく好きな音楽に没頭した。
大学生の間はひたすらボーカルの技術向上に努めて専門のスクールに通った。同時に想像力の赴くままに曲を作った。当時のバンド活動はメンバーに恵まれず、余り長続きしなかった。だからバンド活動を本格的に始めたのはこの<オーロラ>が初めてと言って良かった。だが大学時代に創作した多くの曲が今のバンド活動に生きていた。今回コンテストで演奏する曲も当時作ったものだ。
<オーロラ>をアツシは気に入っていた。メンバーには技術的にも人間的にも恵まれたと考えている。まだ結成して一年と間がなく、持ち曲も少ないが何とか今度のコンテストで上位に入りたかった。入る実力があると信じていた。
「でも本当に凄かったなあ、五島さん」ヒロシが顔全体を早くも真っ赤に染めながら言った。皆酒は余り強いほうではない。
「ホント、サブローのひどいギターよりずっといいわ。五島さんって格好いい」アカリが鈴のような声で言った。ボタンがはずれた紺色のシャツの胸元から健康に焼けた少女の肌が覗いている。
五島は柔らかな笑みを浮かべながら黙ってビールを飲んでいた。アツシはその左手に黒いリストバンドが巻かれていることに気がついた。愛用のアクセサリーなのだろう。
「五島さんは今バンド活動をしていないんですか」
アツシは尋ねた。店の主人が揚げ物と刺身を運んできた。タモツは黙々と食べている。
五島のジョッキを傾ける手が止まった。黒く深い瞳でアツシを見た。
「やってない。大体昨日買うまでギターも無かったんだから」
「しばらくずっと弾いていなかったということですか」
「まあそうだね」
「信じられない」アカリが甲高い声をあげた。目をきらきら輝かせて興味深々という様子である。「でも以前バンドやっていたことがあるんでしょう? とても初めてとは思えないから」
アカリは五島の顔を探るように覗きこんだ。
「随分昔にね」五島は目を伏せてぽつりと言った。「若い頃の話だな」
ヒロシが大声で笑った。腹がたるんでいいて筋肉にもしまりが無いから大笑いすると脂肪がゆさゆさ揺れる。
「若い頃って、五島さん、中年おやじみたいな言い方しないでくださいよ」
「もう三十過ぎているんだ。十分中年だよ」
「そんなことないわ、とっても素敵」
アカリは少し酔いが回ったのかもしれなかった。ジーンズに包まれた細くてすらりとした足であぐらをかいてテーブルに頬杖をつき、派手なアイメイクの端から上目使いで五島を見た。その横でタモツは食べ続けている。
「ギターを始めてどれくらいになるんですか」アツシはまた質問した。五島のことが色々と知りたかった。
「二十年くらいかな。初めて親に買ってもらったのは小学生のときだった。凄いものが手に入ったと感激した。楽器という感覚は無かったな。良く出来たオモチャだと思った。今でもそう思うときがあるけどね。それから自己流で毎日のように練習していた。テレビを見ているときも、勉強しているときも、飯を食っているときもいつも脇にギターを抱えていた。でもまともに弾けるようになったのは君たちくらいの年になってからさ」五島は懐かしそうに言った。
「五島さんのギターって、ギターの感じがしないわ。ううん、うまく言えないけどヴァイオリンかチェロかわかんないけど他の楽器みたい。とにかく変わった音がする」アカリの目が少しうっとりしてきた。小柄ではしゃぐのが大好きなアカリは普段は子供のようだが、酒に酔うといつも妙に色っぽくなる。だがアカリのいうとおりアツシにも五島のギターの音は柔らかで艶やかで全く別の楽器の音に聞こえた。他の弦楽器のようにも聞こえたし、管楽器のようですらあった。いや人間の肉声に近い響きさえ備えていた。
「俺はね、ギターの演奏を余り意識して聞いたことがないんだ。ロックだけじゃなくてジャズやクラッシックも聞いたけど、ギターのパートを特別に聞きこんで練習したりしなかった。どんな楽器でも気に入ったメロディーがあればギターで練習したんだ。それがサックスであってもチェロであっても。だから変わった音に聞こえるんじゃないかな」
五島は饒舌になっていた。飲み物もいつのまにかビールから酒に変わっている。
「あの曲はいいね。なんて曲なんだい」五島は訊いた。
「『追憶』です」アツシは照れくさそうに膝を掻いた。「昔の思い出をモチーフにして作った曲です」
「『追憶』か……」五島は少し考え込むように床に目を落とした。すぐに顔を上げるとアカリの方を見て言った。「もう少しキーボードは厚みを出した方がいいね。特にサビの部分では。その方が歌が引き立つ」
「はい」アカリは目を輝かせた。こういうアドバイスを受けるのは初めての経験なのだ。
「ドラムとベースはちょっと単調だな。導入部、歌、間奏、それぞれで押したり引いたり、メリハリをつけなきゃ」五島はヒロシ達に言った。
ヒロシとタモツは納得したように頷いた。
「ボーカルは……」五島はアツシを見た。「素晴らしいね。普段こうしている君とは別人のようだ。歌を歌っている間は別の人格。そういうことはよくあると聞くけど、まさにその通りだな。歌っている間の君はどこか遠くの世界に旅立っているようだ」
「頭がぼーっとして何も分からなくなるんです」アツシは先ほどの練習の時に味わった感覚を思い出していた。「周囲の音は何も聞こえなくなって。空を飛んでいるような気持ちになるんです。いつもそうですが、今日は特に……」
アツシは今が話をするチャンスだと思った。
「五島さん、今度のコンテストに一緒に出てもらえませんか」
五島は急に押し黙った。
「そうよ、そうしよう、ね」
「頼みますよ」
アカリもヒロシもテーブルに身を乗り出して五島に迫った。タモツだけはその場に静かに座り込んだまま、箸を止めてじっと五島を見つめた。
「悪いけど……」
「お願いします」
五島は四人を順に見てから視線をそらしてテーブルの杯を見た。杯に注がれた透明な液体が居酒屋の入り口からわずかに射し込む夕陽で光った。
「練習だけという約束だったろう」ぽつりと呟いた。
「そういう話でした。でもさっきのあんな凄い演奏を聞いてしまうと勿体無くて。五島さんは今フリーだって言いましたよね。だから……」アツシは食い下がる。
「そりゃフリーだけどバンド活動をする気はないんだ。本当はギターももう弾かないつもりだったんだが、君が余り熱心なんで根負けしただけなんだ」
アツシにはよく理解できなかった。なぜギターを弾くのをやめなければならないのか。
「勿体無いですよ。僕も色んなバンドの演奏を聞いてきましたが、あなたみたいな腕のいいギタリストには出会ったことがありません。その腕を使わないなんて信じられない。何か理由があるんだったら教えてください」
ヒロシやアカリはいつのまにか自席を立ち、五島の周りを取り囲むように座っている。
「第一ギタリストいねえもんな」席に座ったままタモツが吐き捨てるように言った。「サブローの馬鹿がいい気になってオートバイで事故を起こすもんだからみんなが迷惑してるんだ」
手に持ったジョッキを拳で叩き始めた。ジョッキの中で琥珀色の液体が揺れた。
「そうです。僕たちを助けてください、五島さん。もうコンテストまで一ヶ月無いのにギタリストが見つからないんですから」アツシは五島の腕にすがるように片手を置いた。
「とにかく駄目なものは駄目だ」五島はにじり寄る皆を押し返すように両手の手のひらを向けるときっぱりと言った。「悪いが俺はどうしても出られない。他のギタリストをあたってくれ。ギタリストなら山ほどいるだろう。何とかなるさ」
アツシは納得できなかった。だがとりあえずこの場はこれ以上いくら頼んでも無駄だと察して、自分の席に戻るとため息をついた。テーブルに運ばれたばかりの何杯目かのビールを一気に喉に流し込む。アカリもヒロシも自席に戻った。アカリは片方の頬を膨らませて不満げに焼き魚をつつき始めた。タモツは黙って腕組みしている。
気まずい空気が流れたが、アカリとヒロシがすぐ忘れたように騒ぎ出したので元通りなごんだ雰囲気の酒宴に戻った。誰もが完全に引き下がったわけではなかったが、依頼を断った五島の毅然とした態度にすぐには対抗出来そうにもなかったので、その席で再び同じ話が出ることはなかった。アツシには分からなかった。なぜ五島は頑なにバンド活動を拒むのか。たった一ヶ月という短期である。仕事の都合があるのかもしれないが、週にほんの数時間程度時間を割くだけだ。それに何よりもあれほどの優れた技術を持ちながら演奏活動に現在関わっておらず、今後もその気がないというのが信じられない。
五島はその理由を決して語りはしなかった。いや理由だけでなく、五島裕司という名前以外に何一つ自分のことを話そうとはしなかった。出身地、家族、友人、仕事、夢――ひとつとして語ることはなかった。ただ楽しそうに皆の話に相槌を打って酒を飲んでいるだけだった。
まだ諦めたわけじゃないぞ。アツシは頭の中で何度も繰り返し呟きながら、ビールをあおるように飲み続けた。それにしても今日のビールは胃に染みる。アツシは妙に陽気になり、昔のこと、友人のこと、女のこと、曲のこと、色々なことを口にした。次第に視界がぼんやりし始めて、アカリやヒロシの声、周りの物音が聞き取り難くなってきた。断続的に線路の音が両耳の間を行ったり来たりするようになった。
(続く)