短編「遺失物預かり所~一編の詩」
「あら、落としたんだわ」
帰宅して、花柄のブラウスの上に羽織った紺色のカーディガンを脱ごうとしたとき、真央は右手首がないことに気がついた。
落とし物は二度目だった。真央は几帳面な性格なので滅多にないのだが、半年ほど前にかなり有名な文芸新人賞を受賞したときには、驚きと喜びのあまり、連絡を受けた出先でうっかり左耳を落としてしまった。肩まで伸ばした黒髪で普段耳は隠れているため、気づくのが遅れて探すのに苦労した覚えがある。
そのときは出先の近くにある遺失物預かり所に行ったのだが、落とし物の届け出がなかなか来ず、一週間ほど連絡を待った末にやっと耳が見つかったと連絡があったのだった。片耳がなくても聞こえないわけではないので生活に大きな支障はなかったが今度は右手だ。
どこで落としたのかしら。右手首がないと書けないわ。すぐにでも見つけないと。
真央は靴を履き直し、外に駆け出て、道端に落ちていないか目を凝らしつつ、家路を逆に辿って歩いた。もうすぐ陽が落ちる。閑静な住宅街の見晴らしの良い道路は夕陽に照らされて隅々までくっきりと映し出されていたが手首らしき落とし物は見当たらなかった。
遺失物預かり所に行くしかない。確か駅の近くに交番があったはずだわ。駅付近で落としたのなら届いているかもしれない。
真央は祈るような気持ちで遺失物預かり所に向かった。見慣れた駅と交番が見えてきた。交番の隣に小さなコンクリート造りの倉庫がある。遺失物預かり所は警察の管轄なので通常交番の側にある。
真央は交番の警官に声をかけた。
「あの、お巡りさん」
「はっ、お嬢さん、どうかされましたか」若い男性の警官は居眠りでもしていたのか、驚いた様子で答えた。声をかけてきた相手が妙齢の若い女性だったせいか少し顔を赤らめている。
「右手首をなくしてしまったんです。遺失物の届け出はありませんか」
「右手首ですか。最近落とし物が多いですね。届け出ならありますよ」警官は手際よく手元の書類を確認した。
「良かった!」真央は安堵した。半年前のような余裕はない。利き腕の手首は仕事に必須だった。
「こちらへどうぞ」警官は立ち上がると、交番を出て真央を遺失物預かり所に案内した。
白い倉庫には鋼鉄の扉がついていた。右側に銀色のカードリーダーらしき装置がある。警官が胸から下げたカードを読み込ませて暗証番号を入力すると、鋼鉄の扉がゆっくりと左にスライドした。
「入りましょうか」
警官が足を踏み入れると自動的に照明が作動して真っ暗な倉庫内が瞬時に蛍光色で照らし出された。
倉庫内には、日付とアルファベットが刻印された灰色の収納箱が多数、雑然と置かれていた。
「右手首でしたね」警官は場所を知っているかのように迷いなく倉庫の右奥に向かって歩いた。
「刻印されているアルファベットは何ですか」警官の後を追いながら真央が聞いた。
「落とし物の部位を示す記号ですよ。手とか足とか目とか。まれに内臓を落とす方もおられますね。その場合は命にかかわりますけれど」警官は苦笑した。
人は気がつかないうちに色々な物を落とすものだ。真央は周囲の灰色の収納箱に思いをはせた。日付は届け出があった日付だろう。ほとんどが最近の日付だが、なかには数年前、あるいはもっと前の箱もあった。そのひとは何をなくしたまま生きているのだろう。あるいは、もう死んでいるのだろうか。
「この箱です」警官は今日付の刻印がある箱の前で足を止めた。「F.P」とアルファベットが表示されている。
警官は、箱を開けて、透明の収納袋に入った小さな手首を慎重に取り出し真央に差し出した。「何度見てもきれいな手だ」警官は恍惚とした目で袋の中の手を見た。真央が一瞬顔をしかめたことに気づいてあわてて表情を引き締めながら言った。「これで間違いないですか」
短く丁寧に揃った爪。薄いピンク色のマニキュア。白くて滑らかな皮膚。神秘的で妖艶な若い女性の手。
「はい。確かにわたしの手首です」
「良かった。それではここに署名してください」
真央は警官が差し出した小さな紙に署名すると右手首を受け取った。
「ありがとうございました。助かりました」真央は早速右手首をつけると、動きを確かめてから警官に頭を下げた。
「いえいえ。仕事ですから。これからは気をつけてくださいね」
二人は遺失物預かり所を後にした。陽は落ちて、すっかり夜になっていた。
自宅に戻り、急いで夕食をすませると、真央は机に向かった。明日締め切りの仕事があるのだ。週刊誌の小さなコラムだが、デビューしたばかりの新人作家である真央にとっては重要な仕事だった。穴を空けるわけにはいかない。右手首が見つからなかったら大事になるところだった。
早速原稿用紙を取り出した。誰もがパソコンやワープロで文章を書く時代だが、真央は原稿用紙に万年筆で書く。若い作家には珍しいが、真央は手書きでないと心がこもらないという信念を持っていた。小説も詩もエッセイも手書きで書く。今回書く内容は既に頭にあった。一、二時間もあれば書けるだろう。
真央は万年筆でカリカリと書き始めた。ペンは滑らかに動き、原稿用紙がみるみるうちに文字でうまっていく。文章が湯水のように流れ出る。
数秒して真央は異変に気がついた。
書いている文章と自分が書こうとしている文章が違うのだ。真央は自分の死生観を導入部として簡潔に書き、その後に主軸となる自身の詩歌を載せる予定だった。しかし真央が書いている文章は全く異なるものだった。
「おとうさん、おかあさん、ごめんなさい。わたしは死にます。何もかも嫌になりました。何年も付き合っていた彼にふられました。そうです。以前電話で話した彼です。結婚まで約束していたのにね。わたし何をやってもだめみたい。仕事も失敗ばかりで何の役にも立ちません。昨日はシャルが死にました。シャルは猫の名前です。わたしのたった一人の友達だったシャルが死んだのです。仕事から帰ってきたら眠るように死んでいました。病気だったのに気づいてやれなかったんです。馬鹿なわたし。一晩中泣きました。でももう涙は出ません。シャルがきれいな身体でいるうちにわたしも死のうと思いました。そうすればあの世でまた会えるから。おとうさん、おかあさん、ほんとうにごめんなさい。ここまで育ててもらって…」
真央は蒼ざめて椅子から立ち上がった。これは遺書だ。詩を書いているつもりなのに右手が勝手に動いて遺書を書いている。思わず右手首を見た。
白く小さく華奢な掌。手の甲から手首への艶やかなライン。マニキュアの色。両手を揃えて見比べてみた。見分けがつかない。
あっ!
真央は気がついた。小指の付け根に小さなホクロがある。こんなホクロはなかったはずだ。違う!とても似ているけどこれはわたしの右手じゃない!
即座に思い出した。遺失物預かり所だ。手渡されたときにてっきりわたしの手首だと思ったが、他人の手首だったのだ。警官が間違えたのに違いない。それでは、本当のわたしの右手首は?この手首の本当の持ち主は?自殺してしまったのだろうか。手首がないまま?いや、それじゃ遺書が書けない。持ち主は落とした手首を取り戻しに来るはずだ。
真央は途中まで書かれた原稿用紙を折りたたんでハンドバッグに入れると、再びカーディガンを羽織って、外に駆けだした。遺失物預かり所に行くしかない。この手の持ち主が取りにくるはずだ。
午後九時。曇った月明かりと不安定な街灯が道を照らしている。駅まで徒歩一〇分。なんて日だ。今日は何度この道を往復したことか。真央はハンドバッグを抱えて懸命に走った。自殺を止めなきゃ。
交番が見えてきた。隣の遺失物預かり所が街灯に照らされてゆらゆら揺れている。交番に警官の姿が見える。足音に気がついたのか、顔を上げて真央を見た。
「お巡りさん!」真央が叫ぶ。警官の顔が笑顔に変わる。
「良かった!先ほどのお嬢さん!」警官が交番から飛び出してきた。
真央は交番の前までたどり着くと、荒れた息を整えながら警官に言った。
「右手、違います。他の女性の方の手です」
「すみませんでした」警官が頭を下げた。「実はあなたが先程交番に来る前に同じように右手首を落としたという女性が来られましてね。その方が取り違えたみたいで。わたしが見ても見分けがつかないほどよく似た手でしたので。申し訳ない」警官は何度も頭を下げる。
「いえ、それよりもこの手の持ち主が大変なんです。早くしないと手遅れに…」真央は懸命に訴えるがうまく言葉が出てこない。「早く持ち主を見つけないと!」
「ああ、それは大丈夫です。もう来られています」警官は遺失物預かり所の方を指さした。
白い建物の前にあるベンチに一人の女性が座っている。こちらに気づいて走ってくる。真央と背格好はほとんど変わらない。肩まで伸ばした黒い髪、色白の肌、整った顔立ち。違いといえば真央がスカート姿なのに対して、白いシャツとジーンズというラフな装いであることくらいだ。まるで双子のように似ていた。交番まで息を切らしながら駆けてくると真央に深々と頭を下げた。「あの!右手首、取り違えたのわたしです!ごめんなさい!」
「あなたがこの手の持ち主の方ですか?」真央の頭から焦燥と恐怖が少しずつ消えていった。
「はい。二つあってあまりに似ていて迷ったのですが急いでいたのでこの手を選んでしまいました」彼女は泣きそうな顔をしている。
「それはいいんです。それよりあなた、あの、じ、じさつは、その…。何があったか知らないけれど早まらないで!」真央はバッグから原稿用紙を取り出して右手で握りしめると目の前の女性に突きつけるように言った。
女性は真央の手から原稿用紙をつかみとり、中身を読んで驚いた表情を浮かべた。
「これ、私の手が書いたんですね…」彼女の両目から涙がこぼれ落ちて原稿用紙を濡らした。「でも大丈夫です」そう言うと、女性はシャツのポケットからきれいに折りたたんだメモ用紙を取り出した。
「遺書を書こうとしたんです。そうしたら、右手が勝手にこれを書き始めて…」女性はメモを真央に渡した。メモを開くとそこには真央の書こうとしていた一片の詩があった。「その詩を読んだら、自殺はやめよう、気を取り直して生きていこう、そういう気になったんです」
そして女性は遺書が書かれた原稿用紙を破り捨てた。
「その詩のおかげでわたしは救われたんです。お願いがあります。そのメモを頂けませんか」
「もちろんいいですとも」真央の胸は安堵で満たされた。「その代わり手は返してね」
もちろん冗談だった。二人は互いの右手首を交換した。そして遺失物預かり所の前のベンチに座ってしばらく談笑した。仕事のこと、恋人のこと、親のこと、人生のこと。二人は警官に帰宅を促されるまで語り合った。
思わぬ友達ができた。真央は幸せな気持ちになった。振り返ると遺失物預かり所が月明かりで金色に染まっていた。
(了)
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