見出し画像

短編小説「光の糸」(その5)

 
        四
 五島はそれから一週間姿を消した。彼がコンテストに出るという話を聞いて、アカリ達は皆飛び上がって喜んだ。いったんは諦めていたチャンスが再び巡ってきたのだから、俄然張り切りだした。だが五島がいないのでは満足な練習は出来ない。アツシは練習を一週間休むことにした。
 そして帰郷を思い立った。
 何故急に帰郷する気になったのかは、自分でも良く分からなかった。もう何年も実家には帰っていないし、両親ともほとんど連絡をとっていない。だから帰郷の連絡をした時は、両親は驚きの余り、どこか身体の具合でも悪いのかと本気で心配したほどだった。
 十年近く離れていた久しぶりの故郷は、アツシには不思議な絵に見えた。実家はアツシが育った街から隣の街に移っていたから、新しい家はアツシには余りなじみがなかった。だからわざわざ電車に揺られて昔住んでいた懐かしい街まで足を伸ばしたのだった。
 街の風景はほとんど変わっていなかった。ただ少し年をとったことは間違いなかった。駅ビルの壁は黒ずんでひび割れ、駅の前を走る車道に植えられた街路樹の背丈が倍以上に伸びていた。アパートはそのまま残っており、今でも誰かが住んでいる様子だったが、建物全体の色が茶褐色に色あせ、窓枠がぐらついているのが遠目にも分かった。
 奇妙なことは、街全体が小さくなったように感じることだった。アパートから歩道を辿って東に歩くとドブ川に突き当たるのだがそこまでの距離、さらに北に折れるとなじみの書店が当時のまま残っているのだがそこまでの距離、それらあらゆる距離が異様に短く感じられた。記憶では何十分も要するはずが、今実際に歩いてみるとほんの四、五分しかかからなかった。
 自分の距離感と時間感覚が昔とずれている。アツシはそう思った。自分がこの数年の間にガリバー旅行記に出てくる巨人のように大きくなったような不気味な感覚に襲われた。
 アツシは自分が通った小学校を見に行ってみた。驚いたことに小学校があった場所は、だだっ広いただの空き地と化しており、一台のブルドーザーと数台のトラックが土を掘り起こして運んでいた。廃校になったのである。かつて出入りした校門のそばの柵には看板がかかっており、不動産会社の名前が書いてあった。砂場も鉄棒もバスケットボールのコートも家畜厩舎も、今は取り壊され土塊になっていた。
 アツシは小学校の向かいにある自然公園のベンチに腰を下ろした。自然公園も昔のままだったが姿形は大いに変わっていた。休憩所を取り囲む樹木が巨大化し空を覆い尽くしていた 。葉の間からわずかに漏れる金色の陽光がベンチや散歩道を照らし出していた。アツシはベンチに座り込んだまま、記憶というものの曖昧さについて考えた。
 確かに街は昔と同じだった。だがよく見ると大きさも色も臭いも全く変わっていた。いや本当は逆で変わったのはアツシの中にある街の記憶の方かもしれない。自分が思い出として抱いているイメージは実際には全て架空のものかもしれない。どちらが本物なのか。自分の記憶にある街と今ここにある街。
 アツシは『追憶』という曲の意味を考えた。この曲は記憶の中に眠る悲しみや喜びを再現しようとした曲だった。だが思い出を遡ることにいかほどの意味があるのか。記憶が曖昧なもので不変のものでないならば、追憶という言葉自体が無意味になってしまう。だが五島は言った。この歌には人の思い出を掘り起こす力があると。
 アツシは来た道を駅に向かって歩いた。所々に立っている道路標識も建物に打たれている地番も変わっていない。何も変わっていないのだ。いやそのはずなのだ……。

 隣町の新しい実家は他人の家のようだった。
「いつになったら職につくんや」
 テーブルの向かいで食事を終えて煙草を吹かしながら父親がぽつりと言った。青白い煙が張り替えたばかりの白い壁を這い上がっていく。アツシは箸を止めた。
「大学出てもう三年も経つんやで。いい加減に定職についたらどや」
 いつもの口癖だった。アツシが幼い頃から父親には到底理解できない騒音のような音楽に凝っていることは皆知っていた。アツシがプロを目指していることも。
 だが父親にはどうしても納得できなかった。自分は高校しか出ておらず、小さな町工場を経営して身を切るように生きてきた。ようやく軌道に乗り人並みの生活を送ることが出来るようになった。だから子供には十分な教育を受けさせようと考えた。そしてその通りアツシは成績も良く、一流とまでは言えなくてもそこそこの大学を出ることができた。にも関わらず就職もせず訳の分からない音楽で身を立てると夢のようなことを言う。
「いつまでも昔の夢ばかり追いかけよって」父親は吐き捨てるように言った。
 こういう時母親はいつも傍観者を決め込む。静かに席を立つと炊事場で食器を洗い始める。
 アツシは黙ったまま答えない。父親の責めるような視線を浴びながら、昼間見た街の風景に思いを馳せていた。
 結局実家には一晩泊まっただけだった。アツシに対する家族の風当たりは想像以上に強く、説教の嵐にいたたまれなくなったのだ。翌日にはいつものように楽器店で働いていた。しかし頭の中では、数年ぶりに見た街のイメージが記憶を揺さぶり続けていた。こうして『追憶』のイメージはさらに膨らんでいくのだった。

(続く)

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?