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[勝手に芥川研究#7] 「舞踏会」~芥川らしくない芥川の美点が凝縮された中期の傑作

昨晩は、中期の作品「舞踏会」を味わい深く読みました。
「味わい深く」とあえて言うのは、この短編は筋書きだけ言えば単に若い令嬢が生まれて初めて鹿鳴館の舞踏会に行ってそこでたまたま出会ったフランス人の海軍将校と踊った鹿鳴館時代の思い出を、最後に老婦人となった彼女が汽車の車内で作家の青年に語るというだけの短い話だからです。
さらっと読み流してしまったらどこにでもある陳腐な話で終わってしまいますね。しかし短い話ではありますが描写が素晴らしく、人物、情景、人間心理、すべてについて極めて細かく繊細かつ丁寧に描かれているので、文章を味わいながら読み、人物の会話を噛み締めながら聞くことで、心地よい読後感に浸れる、そんな傑作です。

例えば初めて鹿鳴館を訪れた主人公が不安と期待が混じった複雑な気持ちを抱えながら階段を登るときの描写。

明い瓦斯の光に照らされた、幅の広い階段の両側には、殆人工に近い大輪の菊の花が、三重の籬を造つてゐた。菊は一番奥のがうす紅、中程のが濃い黄色、一番前のがまつ白な花びらを流蘇の如く乱してゐるのであつた。さうしてその菊の籬の尽きるあたり、階段の上の舞踏室からは、もう陽気な管絃楽の音が、抑へ難い幸福の吐息のやうに、休みなく溢れて来るのであつた。

芥川龍之介. 芥川龍之介全集 決定版 (インクナブラPD) (p.1074). innkunabula. Kindle 版.

菊の花は、この小説のキーワード(鹿鳴館の象徴)でもありますが、階段から舞踏室までの丁寧な描写の美しさに惚れ惚れしてしまいます。

舞踏室でひときわ目立った彼女はフランス人の海軍将校に誘われて踊ります。そのときの描写。

 彼女はその優しい言葉に、恥しさうな微笑を酬いながら、時々彼等が踊つてゐる舞踏室の周囲へ眼を投げた。皇室の御紋章を染め抜いた紫縮緬の幔幕や、爪を張つた蒼竜が身をうねらせてゐる支那の国旗の下には、花瓶々々の菊の花が、或は軽快な銀色を、或は陰欝な金色を、人波の間にちらつかせてゐた。しかもその人波は、三鞭酒のやうに湧き立つて来る、花々しい独逸管絃楽の旋律の風に煽られて、暫くも目まぐるしい動揺を止めなかつた。

芥川龍之介. 芥川龍之介全集 決定版 (インクナブラPD) (pp.1076-1077). innkunabula. Kindle 版.

繊細かつ豊潤さが凝縮された描写です。こういうのを読んでしまうと、自分で書いている小説の薄っぺらな描写が情けなくなって何も書けなくなってしまいます。。。

ちなみにこの品の良いフランス人海軍将校は、主人公の美しさをこう褒め称えます。

「ワツトオの画の中の御姫様のやうですから。」

ワットオとは、18世紀の画家アントワーヌ・ヴァトーのことで、おそらくこの絵を指しているのでしょう。この言葉が出てきた時点でこの将校が芸術に親しみのある人物であることが読者にわかります。

舞踏会の楽しみ

そして露台(バルコニー)で物思いに耽る彼が花火を観ながら彼女に発する一言の儚さ。おなじみの倒置法、芥川作品ここにありですね。

「私は花火の事を考へてゐたのです。我々の生のやうな花火の事を。」

人生の儚さを花火に例える将校。過ぎ去りゆく儚く美しかった時代を感じさせます。

実は、この海軍将校はピエール・ロティという有名な作家で、長崎に滞在したときの経験をもとに「お菊さん」という小説を残しました。ラストで歳をとった主人公が列車の中で一緒にいた若者から「彼がロティさんだったんですね」と聞かれますが、彼女は本名しか知らなかったため、

「いえ、ロテイと仰有る方ではございませんよ。ジュリアン・ヴイオと仰有る方でございますよ。」

と答えて作品は終わります。つまり、彼女の懐かしく、美しく、儚い若い頃の思い出の中では、そのフランス人はジュリアン・ヴイオであり、ロティという作家ではありませんでした。

実は芥川は初稿では、彼女はロティであることを知っていたことにしていましたが、後に改定して知らないことに変えています。いろいろな説がありますが、わたしはこう解釈しました。
もしロティであることを知ったとなると、有名な作家ロティと踊ったという大きな思い出になってしまう。知らないままにしておけば、どこの誰かわからない素敵なフランス人将校と踊ったという掌の思い出として残しておける。
また、本名を知っていてもロティと結びつかなかったことから、相席に座る作家と違って、彼女はロディ=ジュリアン・ヴイオということを知らない。あるいはロティという作家自体を知らない。ある意味無教養なひとということになる。もし知ってしまうとくだらない教養で思い出が汚れてしまうという皮肉を込めたのかもしれません。

わたしも改定後のほうが好きですね。そのほうが女性の素朴さが際立ちます。

ちなみに芥川龍之介という作家に対して辛口の三島由紀夫でさえ、この舞踏会という作品は賞賛しています。皮肉交じりですが、こう言っています。
「芥川の持つてゐる最も善いもの、しかも芥川自身の軽んじてゐたものが、この短篇に結晶してゐるやうな感じがする。」
さすが天才三島由紀夫だと思います。わたしは三島とは逆の立場で芥川作品を好んでいますが、否定する側に立てば、この三島の指摘ほど的確なものはないと思います。三島由紀夫は「秋」という作品についても、傑作ではないが準佳作であり、芥川はこういった準佳作的なものをもっと書けばよかったと言っています。芥川の芸術至上主義には不可能なことですが、もし三島の指摘のような作品を書いていたらまったく違う芥川作品群ができたでしょうね。

最後に蛇足ですが、、
国語の教科書には今も芥川龍之介が載っているそうですね。うれしいことです。「トロッコ」「蜘蛛の巣」あたりが定番だと思いますが、もし教科書に「舞踏会」が載っていたらどうでしょうか。中高生が抱く芥川に対するイメージはガラッと変わるのではないかと。

さて今回は、芥川らしくないけれども、芥川の美点がよく出た中期の傑作短編「舞踏会」についての感想でした。

それではまた!






この部分は、知っていたことにするか、しないか、芥川は迷ったのか、

描写の美しさ
人生の儚さ
相手を知らずに済ませた理由・・・有名人としての彼に恋心をいだいたのではなく、ただひとりの詩的なフランス人にほのかな恋心をいだいたことにしたかったのだと想う。
これが国語の教科書にのっていたら芥川に対する若者のイメージはガラッと変わっていただろう
あの辛口の三島由紀夫ですら褒めている「鹿鳴館」のなんて

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