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短編小説「エマと絵里」

遅いわね…
焦らない、焦らない。もうそろそろよ
ああ、来られたわ!

 小さなスイッチの音とともに照明が灯り、部屋が暖かなオレンジ色に包まれると、白髪交じりの初老の男が厚手のグレイのパジャマ姿で現れた。
「今日も夜が来たね。エマ、絵里」男は穏やかな表情を浮かべて二体の人形の前にかがみ込んだ。一体は中性ヨーロッパの貴婦人とおぼしき豪華な装いの金髪の少女。もう一体は紺色の袴に深紅の帯という和服の黒髪の女性。
 男は小さな椅子に腰をかけて背中を丸め、膝に両手をつきながら二体の人形を優しい目で見つめた。
 エマ、君の故郷はパリだったね。親指大のエマのピンク色の顔が少し赤みを帯びた。凱旋門が見える。くるくると回り続ける車たちが出口を探している。快晴のシャンゼリゼ通りには人があふれ、日除けで陰ったカフェの外のテーブル席では若者も老人も昼間からワインを飲みながら談笑している。コンコルド広場に向かう通りのはずれの骨董品屋には絵画や版画、彫刻や人形が並んでいる。骨董品屋を営むベレー帽をかぶった白髪の老人は金縁眼鏡を拭きながら大きなあくびをひとつする。今夜の食事について考える。大通りは観光客でいっぱいだ。路地裏のいつもの店に行こうと決める。あのおしゃれなおじいさん、まだ元気かしら。
 男は眠くなってきた。眠剤を飲んだから余り長居はできない。絵里に目をやる。
 絵里と出会ったのは京都だったね。夕暮れの鴨川を散歩するひとたち。川縁に座って鴨川を眺めるひとたち。鴨川のほとりの料亭で懐石料理を食するお金持ちの観光客。少し外れの小さな店で手頃な価格のおばんざいを楽しむ常連客。慣れていないと迷子になる迷路のような先斗町。人一人やっと通れる路地を入った先に看板がかかっていない小料理屋がある。小料理屋は一見客お断りのくせにいつも満席だ。その店のさらに奥に人形売りの店がある。観光客が数名のぞき込んでいる。人形店を一人で切り盛りする太った中年の女主人は忙しい。客に和菓子とお茶を出して出迎えつつ品物を売り込む。あのおばさんのお店はまだあるかしら。
「そろそろ時間だね。眠くなってきたよ」男は立ち上がると疲れた顔つきで人形に軽く目で合図した。決して人形に触れることはない。いつもただ目で愛でるだけだ。
 男は不確かな足取りで部屋を出て行くと、オレンジ色に染まった部屋が再び闇に包まれた。

最近元気ないね。
そうね、顔色が悪かったわ。大分お痩せになったみたい。
心配だわ。

 カーテンの隙間から漏れるわずかな光。無人の暗がりの中、エマも絵里も眠りについた。エマは夢を見る。華やかなシャンゼリゼ通り。絵里も夢を見る。迷路のような先斗町。二人の故郷。

 突然のサイレンの音と複数の足音で二人は目が覚めた。暗い部屋の扉の向こうがやけに騒がしい。

何か騒がしいね。
まだ夜中よね。大勢の人の足音がするわ。

 いつもはカーテン越しに朝陽を感じる時間まで静かな部屋に、人の声と大きな物音が聞こえてくる。扉の向こうは見えないが、大勢の人間が行き来しているらしい。物音は暫く続いたが、ドアのしまる金属音が響き渡るとともに静けさが戻った。直後にいったん止んでいたサイレンが再び鳴りだし、次第に小さくなっていった。

静かになったわ。
いつもの夜に戻ったようね。
まだ朝は来ないの?
そうね。もう少しかかりそう。
じゃあもうちょっと寝る。
はい、おやすみなさい。

 朝が来た。いつもならカーテンを開けに来る男が今朝は来ない。いつまで待っても部屋は暗いままだ。時間はわからない。この部屋には時計がない。
 どうしたのだろう。いつも朝になるとあの人は必ずカーテンを開けに来て、窓を開けて、わたしたちに挨拶するのに今日はいつまで待っても来ない。部屋はカーテン越しに薄日が差すから真っ暗ではないが夜が続いているようで気分が悪い。あの人はどうしたのだろう。忙しいのかしら。
 また夜が来た。その日部屋の扉が開くことも、カーテンが開くこともなかった。再びうっすらと月明かりがカーテン越しに部屋を照らす程度の暗い部屋に戻った。あの人が寝る前の挨拶に来ることを期待して待っていたが現れることはなかった。夜は静かに更けていった。

結局今日は来なかったわ。
心配ね。いったいどうしたんでしょう。旅行にでも行っているのかしら。
そんなはずないわ。それなら一言挨拶していくと思う。
そうよね…

 翌日もその翌日も部屋の扉が開くことはなかった。無人の部屋は閉じたカーテンから漏れるかすかな陽光と月明かりが時間とともに入れ替わるだけで暗いままだった。何時間経ったのか、何日経ったのかわからない。この繰り返しが永久に続くかと思われた。
 その矢先、扉が開き見知らぬ男性が入ってきてカーテンを開けた。長い夜が明けた。それから急に慌ただしくなった。数人の男と女が部屋にある箪笥やテーブル、その他の家具を片端から片付け始めた。箪笥の中の衣服や文房具、本や雑貨類を確認しながら整理している。

誰、このひとたち。
わからないわ、何をしているのかしら。
あの人はどこ?
わからないわ。

 一人がエマと絵里に気づいた。感情のない目でしばらく見つめていたが、二人を手に取ると小さな箱に入れた。箱はすぐに閉じられ、再び闇が訪れた。

どうなるのわたしたち。
わからないわ、何もかも。
引っ越しかしら。 

 何時間経ったかわからない。エマが再び眩しいほどの光を浴びたときは驚いた。目の前にあの人の横顔があった。青白い肌、静かに閉じられた目、物言わぬ唇。絵里も同じだった。ただエマはあの人の左に、絵里はあの人の右にいた。二人は眠る男の青白い顔を挟むような格好で横たわっていた。周囲には溢れんばかりの花束が敷き詰められている。百合の香りがエマと絵里の嗅覚をくすぐった。小さな嗚咽が聞こえてくる。

久しぶりだわ!あの人に会うのは!でも眠っているのね。
そうね、深い眠りについたのね。
永遠の眠り?
そうね、永遠の眠り。みんな眠るものよ。
わたしたちも一緒に眠るの?
そうみたい。良かったわ、一緒に眠れて。

 棺は閉じられ、完全な暗闇に包まれた。
 しばらくすると周囲が赤く染まっていった。
 エマは想った。骨董品屋の老人のこと、店を訪れたたくさんの人のこと、初めてあの人と会った日のこと、絵里と出会った日のこと、自分たちの部屋にいた美しい女性のこと。
 絵里は想った。人形店の女主人のこと、女主人が出した和菓子のこと、初めてあの人と会った日のこと、エマと出会った日のこと、自分たちの部屋からいなくなった女性のこと。
 そしてずっと優しく接してくれたあの人のこと。

さあ絵里、目をつぶって。眠りなさい。
はい、エマ。おやすみなさい。

 紅蓮の炎の中、永久の帳が下りて三人は静かに眠りについた。

(了)

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