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短編小説「光の糸」(その7 完結)


 五島の右手は鳥のように空中を飛び回っていた。魔術師のごとき繊細で緻密な動きで白く細い指が形を複雑に変えながら弦の近くをさまよっていた。ある指は一弦をとらえ、別の指は二弦をとらえ、それはあたかも入念に反物を織る織物職人のようだった。弦は糸となって五島の手のひらで踊っていた。銀白色の閃光を放ちながら。
 五島の指先からは数え切れない数の糸が編み出されていた。糸は幾重にも折り重なって赤く燃える空や火の海と化した大地へと繋がっていた。火口から噴き上がる炎の後ろで糸が網目状に揺れていた。世界全体が五島の編む糸で織りなされていた。

 アツシは泣いた。転んで右腕の骨を折ってしまったのだ。最初はただの捻挫だと思ったのが、昨日は一晩中右腕がきりきり痛み、朝には腕が倍の太さに腫れ上がっていた。そして病院に行くと早速医者が言ったのだ。
「腕の骨が折れているな」
 折れた骨は二度と元には戻らない。もう漫画も描けないし野球も出来ない。それどころかこれからは左手でご飯を食べなければならない。そう考えると涙が出てきて止まらなかった。大粒の涙が両目からあふれ出て膝に音を立てて落ちた。看護婦が怪訝そうな顔をしていたが、理由を知ると大きな声で笑い出した。
 その時始めてアツシは知った。人の身体は怪我をしても元に戻ることを。怪我も病気も時間をかければ元通りになることを。余りのうれしさに腕をギプスで吊ったままスキップをしながら家に帰った。何より大切なことを学んだと思った。
 あれから二十年。今では人間には失ったり傷ついたりしたら、二度と取り返しがつかないことがあることも良く知っている。

 その子からは少女の匂いがした。彼女の家に遊びに行った時その匂いに気がついた。机の隅に飾られた人形、赤い花柄の筆箱、オレンジ色のリボン。ありとあらゆるものから少女の香りがした。アツシは、初めて訪れる女の子の部屋の不思議さに緊張と抵抗を感じて、部屋の隅に身構えて座っていた。その子はすぐ紅茶を入れてくれた。紅茶を飲むのも初めてだった。少女は黒く丸い目を大きく見開いて言った。
「さあ、遊ぼ」
 そうして積み木細工と数枚のカードを合わせた奇妙なゲームを持ち出してアツシの目の前においた。少女はゲームの説明をしてくれたが、アツシは興奮して良く理解できなかった。それどころではなかったのだ。今、部屋にはアツシと少女の二人きりだった。少女の匂いが部屋一杯に漂う中で二人きり。このままずっとこうしていたいという欲望と一刻も早くここを出たいという恐怖のふたつの感情がアツシの胸を交錯していた。しかし暫くして答えは出た。やはり逃げなければ。このままでは大変なことになる。アツシはそんな気がして、逃げる算段を考え始めた。少女の説明を少しも聞いてはいない。
「聞いてるの?」
 少女が頬を膨らませてアツシの膝を叩いた。アツシは膝に触れられて気が遠くなるような恐怖を覚えた。ゲームどころではない。少女はまた一からルールの説明をし始めた。だがいつまでたってもゲームは始まらなかった。

 火山の噴火と大地の鳴動が突然止んだ。
 アツシは再びマイクを手に取り歌い始めた。そして大宇宙の虚空をまた漂流し始めた。暗黒空間を無数の星が灯台となって照らし出していた。どこかからともなく同じギターの旋律が流れ、アツシの歌声と調和した。
 星々は先ほどまで見ていた星と何ら姿を変えていなかった。アツシは尽きつつある最後の力を振り絞って何度も繰り返し辺境に向かって叫び続けた。何のためか分からない。答えも欲しくはない。ただ叫び続ける必要があった。
 背後から子守歌のようなギターの音色が聞こえる。もう叫ぶのは終わりだ。思いは届いた。銀河の果てまでこの思いは十分に伝えた。あとは子守歌に身を任せて眠るだけだ。
 大きな拍手喝采の音でアツシは宇宙から地上へと引き戻された。気がつくと、マイクはスタンドに置かれ、仲間達が全員自分の周りに集まっていた。司会者が前で何やら声を発している。全員で客席に向かって軽く頭を下げて挨拶した。客席の拍手が一瞬の間大きくなった。アカリ、タモツ、ヒロシ、皆満足そうに笑っている。五島は天井にかかる照明を眩しそうに見上げていた。アツシも同じ事をした。
 コンテストの結果はすぐに発表された。アツシ達が審査員の満場一致で最優秀賞に選ばれた。
 コンテストの主催者側からインタビューを受けたが、アツシには言うべき言葉が見あたらなかった。あの演奏中に感じた不思議な感覚や疑似体験が彼をとらえて放さず、演奏が終わっても心臓が空中を浮遊しているようで正常な精神状態になかなか戻れなかったのである。とにかく最優秀賞を受賞できたのは、ひとえに五島のギターのおかげだった。アツシにはそれがよく分かっていた。勿論審査員側も。だから主催者側はまず五島にコメントを求めようとしたのだった。だがそれは叶わなかった。何故なら、演奏終了直後に彼は会場から姿を消したからである。
 アツシは、雑事を済ませると、会場から直接五島のアパートへと急いだ。もう既に日が暮れていた。
 アパートに到着すると扉が開いたままだった。アツシは中に入って灯りをつけた。何もかも無くなっていた。もともと道具の少ない部屋だったが、玄関の靴も洗面所のタオルも部屋の隅に積んであった布団類も炊事場のコップひとつさえも無かった。
 ただギターが一本窓際に立てかけてあった。黒塗りのギブソンレスポール。闇夜のような漆黒のギター。数時間前に五島が使っていたギターである。側にはアツシが渡した曲の譜面とテープが置いてある。開けっ放しの窓から覗く夜の闇に黒いギターが溶けこんでいた。弦だけが眩いばかりの光を放っていた。
 五島はアパートを出ていったのである。アツシは不思議と余り驚かなかった。そんな気がもともとしていた。ギターの弦に一通の封筒が挟んであった。手に取って開くと、五線譜と一枚の便箋が入っていた。

「アツシ君、有り難う。君のおかげで俺は言葉を取り戻した。君はいい仲間を持ったね。素敵なバンドになるだろう。本当はもっと一緒にプレイしたいが、俺は行かなければならない。俺は一〇年前に過ちを犯した。同じバンドの子と結婚した話しはしたね。その子がクスリに手を出した。止めれば良かったんだが、バンドが絶好調で天狗になっていたんだろうな。俺もクスリに手を出して毎晩のように二人でラリってた。ある晩、その子が動かなくなってね。中毒死というやつだ。すぐに警察か病院に連絡するべきだったのに、俺は捕まるのが怖くて逃げ出した。その子の変死についてはもちろん翌日報道されたよ。それからは逃亡の日々さ。一〇年間息を潜めて、声を殺して、目立たないように生きてきた。だけどそれは間違いだった。再びギターを弾いて君たちとスタジオで練習していて気がついた。一〇年ぶりに生きている実感を味わった。言葉を取り戻したんだ。本番はきっとうまくいくだろう。君たちなら成功するさ。俺は自首する。もう逃げるのはうんざりだからね。このギターはサブロー君にあげてくれ。その弦は切れるまで張り替えないように。長持ちするがいつかは切れる。替えはないんだ。それから君たちへのお礼に曲を作った。俺が精一杯今の気持ちを込めて書いた曲だ。ぜひ君たちのバンドでプレイしてみてくれ。タイトルはアツシ君に任せる。じゃあさよならだ。本当に有り難う」
 アツシは、五線譜を開いた。ギター、ドラム、ベース、キーボード、そしてボーカル。全パートが手書きで繊細かつ的確に書かれていた。譜面を読んでいるだけで、詩情と躍動感が伝わってきて心が震えた。

 五島さん、こちらこそ有り難うございました。

 アツシは無人の部屋に軽く頭を下げ、漆黒のギターと封筒をケースに入れて片手に下げると部屋を出た。
曲のタイトルは決まっていた。

- 光の糸

 アツシはゆっくりとした足取りで歌詞に想いをめぐらせながら薄明かりの夜の街を家路についた。

(了)


本作はこれで完結です。読んでいただいた方ありがとうございました。

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